本能寺の変 その時家康は、武川衆は

6月2日
 信長の死。本能寺の変、一日の酉刻に明智光秀・織田七兵衛(信澄)により信長が討たれた
6月2日
 明智光秀、京都本能寺に於いて織田信長を襲撃。〔信長公記
  
【家康の動き】
家忠は家康が伊賀・伊勢を通り、大浜(愛知県碧南市)に上陸したことを知り、早速大浜に迎えに行く(大浜は知多湾の東側港町)家康は伊勢湾~知多半島を北上(乗船経路)
6月3
 穴山梅雪、宇治田原辺で一揆に殺される(42)〔国志〕
家康の安土上洛に同行していた穴山梅雪も帰国途中で一揆に殺されていた(異説有、日記では切腹
 
 
本能寺の変の影響と家康の対処
 滝川一益は北条氏と戦って敗北、上野国を逃亡
甲斐国知行、河尻秀隆は一揆により殺害
信濃国内の領主に対して、徳川・北条・上杉・秀吉が触手を伸ばす。
【家康】 
家康は尾張へ出陣する
◇甲斐の領国化
大久保恵世・大須賀康高石川康通らを甲斐に派遣し、武田旧臣を手なづけ、甲斐の領国化を図る
信濃侵攻
信濃へは奥平信昌を派遣して、すでに伊奈郡を手中に収めていた(『当代記』)。
六月二七日条には「信州之儀、酒左被入候事談合候」、酒井恵次を派遣、信濃を領国化する談合。
直後に恵次は信濃へ、国内の領主に対して、徳川氏への服属を働きかけていた。
【北条】
信濃や甲斐の領主への働きかけ、真田昌幸などを服属、佐久・小県・諏訪郡へ進出
【家康】
 北条氏側の動きに対抗し、甲斐・信濃の領国化を図る
家康は七月三日出陣
【家忠】
七月三日
 出陣し、山口(静岡県掛川市)・牧野・駿府・清水・大宮・精進を経て、
七月十日
 甲斐善光寺に着陣
七月十五日
 忠次から白須(山梨県白州町)への着陣を命じられ、信濃へ侵攻
七月十八日
 家忠は諏訪に着陣、滞在していた
七月二十二日
 「高嶋あつかい切候て働候」、高嶋城攻撃を開始
高鳴城主諏訪頼忠は最初は徳川氏に味方
酒井忠次が「自分の命令に従え」と述べたことに怒って、北条氏に寝返った。
七月二十四日
形原衆の陣に諏訪軍が夜討をかけた
七月二十六日
小屋際に「かまり」(忍びの者)を置き、家忠自身が敵を討ち取る
高鳴城攻撃を続行
【北条】
北条氏直は二万余の大軍を率いて碓氷峠を越え、佐久・小県郡を制圧しつつ、諏訪郡に向かっていた。
【徳川】 
徳川軍は諏訪を退却する
八月一日
家忠は白須まで戻り、三日には乙骨(長野県富士見町乙事)で陣を張って北条軍に対処
八月六日
北条軍が侵攻、わずか二〇〇〇余と劣勢の徳川軍は新府(山梨県韮崎町)に退却
【北条】
北条軍は新府から一里程離れた若神子(須玉町)に陣取る
八月七日
先陣が新府に半里の所まで前進
【徳川】
八月八日
甲府に滞在していた家康が物見のために新府に、そのまま新府城に陣を張り、その結果徳川軍は総勢八○○○人となった〔『三河物語』〕
八月十一日
北条軍の進出を遮断するため、新府城の向側に新たな砦を建設
【北条】
北条氏政は氏直の援軍として、弟氏忠を派遣。軍は都留郡を通って御坂峠を越え、甲府へ〔三河物語
【徳川】
八月十二日
徳川軍、甲府留守居衆は、途中の黒駒(御坂町)で待ち構え、北条軍の大将三百余を討ち取る。
【北条】
北条軍は潰滅的打撃を受けて敗走したため、氏直軍は孤立することになり、戦線は膠着状態となった。
【家忠】
家忠はこの間小口番・物見番・むかい取出番を交代で勤めていた。
小口番は新府城の虎口の番、
物見番は北条軍の様子を斥候
九月十七日
敵の伏兵にあい、家臣鐘小吉が負傷
むかい取出番は十一日に建設された砦の番のこと
九月二十五日
両軍の本格的激突が行われた
八月二三日
家康から無上茶を下賜
九月一日
胡桃を下賜
九月二十九日
膠着状態の間に、真田・芦田(依田)氏が徳川方となる
北条軍の背後の佐久・小県郡が封鎖され、北条軍は封鎖
十月二十九日
両軍の間で和睦が成立し、氏直は退却する
退却の安全を保証するため
北条から大道寺・山角氏、
徳川から酒井家次が人質として相手に差し出された
【和睦条件】
都留・佐久郡を徳川
真田昌幸の知行地上野国沼田を北条氏
(沼田の譲渡は昌幸が拒否、後々も沼田の帰属は紛争の種となり、秀吉の小田原攻めの直接の原因)
家康の外交政策
十月三十日
家忠は人質交換に立会
北条軍は佐久郡を通り、碓氷峠を越えて、上野国に撤退
【家忠】
十一月四日
北条氏の備えに家忠は右左口(山梨県甲府市中道)に砦を建設の為、善光寺へ向かうように命じられる
十一月七日
勝山(河口湖畔、山梨県勝山村)の砦の普請を開始
十一月中
連日普請に従事
十二月七日
普請を終了
この砦は都留郡方面から進軍してくると予想される北条軍への備えを固めたもの
十二月十一日
甲府滞在中の家康に出仕し、帰陣の許可を与えられた
十二月十六日
深溝に戻った
この年末から翌天正一一年にかけて、家忠はほとんど深溝在住
 
家康の甲斐出馬
 信濃の情勢は未だ不安定
家康はその対応のために、天正十一年に二度甲斐へ出馬
天正十一日四月
しばらく甲府に滞在し、小笠原貞慶・諏訪頼忠・真田昌幸・保科正直らの出仕を受ける(『当代記』)
五月九日
浜松に帰国した。南信濃の情勢はとりあえず安定した。
十月二日
家康は甲府から江尻に戻り、翌日家忠に長久保城(静岡県長泉町)普請を命じた。
長久保城】
駿河伊豆国境にある境目の城で、北条・武田・今川氏の間で争奪が行われていた
天正十年の武田氏滅亡後には徳川方の城となり、十一月から牧野康成が城主となっていた(寛政重修諸家譜