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誤伝されたる柳澤甲斐守 村松志孝氏著

誤伝されたる柳澤甲斐守 昭和十一年発行 市川大門町(今三郷町)村松志孝氏著(東京中央放送局より放送)一部加筆 注記 吉保は出羽守、美濃守で、甲斐守は名乗っていない。 村松志孝氏著・編集(抜粋)山梨縣志編纂會「人物資料」・山梨県志編纂會「孝女伝」…

柳沢吉保建立 甲斐龍華山永慶寺『甲斐国志』

龍華山永慶寺『甲斐国志』巻の四十五 古跡部第八 山梨郡北山筋 一部加筆 一 廃龍華山永慶寺(岩窪村)村ノ東、信玄火葬場ノ間ナリ、今尽ク陸田トナル、宝永中松平美濃守吉保創立シテ濤蔵ノ所トナス。山城国宇治黄蘗山万福寺ニ準擬シ、七堂迦藍荘厳美麗ナリ(…

柳沢吉保異聞 翁草 元宝荘子

柳沢吉保伝 翁草 巻之七十七 柳沢吉保伝 翁草(おきなぐさ) 巻之七十七(『日本随筆大系』第三期 第十二巻)左は原本 加筆 生類御憐并五士一僧之事 将軍始の程は、尚も御慎みの兆遣らせ給い、営中へは召るゝ女中もなく、唯保明亭の御遊のみ成しが、日を迫ひ…

松平甲斐守吉里 吉保ノ男、幼名、網干代又は柳沢兵衛安暉と云う。

松平甲斐守吉里 吉保ノ男、幼名、網干代又は柳沢兵衛安暉と云う。 元禄 年 任越前守 元禄十四年 賜御氏諱改、松平伊勢守吉里 宝永六年丑六月廿八日 家督改甲斐守四品侍従に至る(按に宝永三年の八月、望まれて古府八幡宮奉納百首和歌の尾に記して曰く、従四…

柳沢吉保 『甲斐国志』

松平美濃守吉保『甲斐国志』一部加筆 『武家補任』云う 柳沢刑部左衛門安忠の二男始め柳沢弥太郎保明 神田御屋形ノ小姓也 柳沢氏ハ本州武河衆の一員なり 御本丸ニ被為入節為に御小納戸(延宝九年の『武鑑』に見える) 貞亨二年丑十二年廿八日、任官出羽守従…

甲斐善光寺 〔織田信長・大泉坊・小山田信茂〕

〔織田信長・大泉坊・小山田信茂〕 其後天正十壬午年(一五八二)三月、織田信長が当国に襲来し、其の先手は長子の信忠であったが、信忠が安土に帰陣したあと、信長は国内諸所を巡見した。これより先織田に内通して勝頼を新府から欺き出し、武田家をあの結果…

甲斐善光寺 〔牛にひかれて善光寺参り〕

〔牛にひかれて善光寺参り〕 こゝに一つの不思議の話は延賓六年(一六八〇)江戸の芝牛町から一疋の牛が来山された事である。 寺録に、 延室六年(一六八〇)江戸芝牛町より一疋の牛、常山へ参詣の事、一七日 参籠、其行方不知、彼牛の石碑は本堂東の傍にあ…

北杜市偉人伝 小尾守彦 『北巨摩郡誌』(一部加筆)

北杜市偉人伝 小尾守彦 『北巨摩郡誌』(一部加筆) 寛政四年(一七九二)甲村五丁田(北杜市高根町)なる里正の家に生れ、通称兵之進、諱は保教、字は子孝、鳳山と号した。幼にして谷戸の祠官某に学び、其の後独学独習一家を成し又書を能くした。蕪(かぶら…

武川町 山高氏系譜

北杜市偉人伝 中山正俊 白州町横手出身 『北巨摩郡誌』一部加筆

北杜市偉人伝 中山正俊 白州町横手出身 『北巨摩郡誌』一部加筆 本県明治の漢学教育家として第一位に置くべきは駒峯中山正俊である。氏は安政三年(一八五七)駒城村横手に生る。天資頴悟夙に甲府徽典館に学び、明治六年(一八七三)笈を負い東都に遊学する…

北杜市偉人伝 今井喜七氏&名取高三郎氏

北杜市偉人伝 今井喜七氏(小淵沢町篠尾村)&名取高三郎氏(白州町上教来石) 名取高三郎氏(「白州町誌」昭和61年) 北海道で大活躍(名取高三郎商店)、郷土への貢献も大 安政五年(一八五八)十月二日、旧鳳来村字山口名取員保・まるの長男として生まれた…

大武川鳥瞰(蘇り来る河)昭和43年大水害 古屋五郎氏著(元白州町長)

大武川鳥瞰(蘇り来る河) 古屋五郎氏著(元白州町長)『中央線』第8号(1972) 私が南方の長い戦陣から復員したのは、昭和二十一年であった。その年は極度の栄養失調と、敗戦の虚脱状態の中に空しく暮れた。年が明けて体調もやゝ整ったので、先ず外地に…

白州町 河西素柳 河西儀右衛門

白州歴史上の人物〔河西氏 下教来石〕 角川日本姓氏歴史人物大辞典10山梨県 『続峡中家歴鑑』に、北巨摩郡鳳来村下教来石(白州町)の河西斐規がみえ、同家は新羅三郎義光の末喬河西蔵人義行を祖とし、治承四年の頼朝挙兵、義経追討に功をあげ、甲斐河西荘を領…

甲斐駒ヶ岳 尾白川本谷

甲斐駒ヶ岳概念図

南アルプス北部概念図 甲斐駒ヶ岳(昭和36年)

昭和初期 甲斐駒ヶ岳史料

甲斐駒山脈の特色

甲斐駒山脈の特色 小島鳥水『現在登山全集』「北岳 甲斐駒 赤石」 昭和36年 創元新社刊(一部加筆) 花崗岩と古生層地と交錯していること、日本アルプスに比額のない、シエラ、ネヴァダににたような、鋸歯状の山稜を有すること(鋸岳において)、高山植吻は…

巨摩郡 『甲陽茗話』 駒ヶ岳

巨摩郡 『甲陽茗話』に釜無河の水源に神馬の精あるに因て、此水を飲て畜育【そだち】たる馬子は必す靈なりと云。 凡この山より下瀝【したた】る水流の及ふ所を一郡とするを以て郡名の起る縁由知りぬべし。吾友靱部定賢の説には、本郡は平原多くして馬を畜ふ…

『甲斐叢記』巨摩郡をみる。

『甲斐叢記』巨摩郡をみる。 巨麻は駒なり。本郡の西北の隅に駒嶽あり(又巨摩山とも作れり)傳一云、古時厩戸王(聖徳太子)の驪黒【くろこま】山の産したり。 釜無河、尾白河、大武河共にこゝに発源せり。

『甲陽舊尋録』にみる眞衣野牧

『甲陽舊尋録』にみる眞衣野牧 甲州よりの名馬の出候謂れは武州筋より西之方駒ヶ嶽 と云う高山あり。之右之山の上る龍馬の住居候由。右武 川筋之百姓薪取に参りて駒のいなゝき候を天然に承り 候者も有之由呑候馬の子は必名馬なるよし申之。

真衣野牧に関する『甲斐名勝志』の見解

真衣野牧に関する『甲斐名勝志』の見解 甲斐御牧考ニ曰武川之地有、牧原村興ニ驛路属ス。 和名鈔有ルトキハ巨摩郡眞衣則此其為ル「違名亦可知ヌ」

真衣野牧に関する『甲斐国志』「巻之四十八古蹟部第十一」の見解

真衣野牧に関する『甲斐国志』「巻之四十八古蹟部第十一」の見解 倭名抄ニ巨摩郡ノ郷名萬木乃、国用眞木野字トアリ。 余戸郷北貳拾餘村皆此郷ニ属ス。 牧【マギ】ノ原村即チ其違名ナリト云。延喜式及ビ国史 諸記ニ所レ載本州ノ御牧三所穂坂、眞衣野、柏前ナ…

甲斐の御牧 眞衣野牧 『甲斐叢記』の見解

眞衣野牧『甲斐叢記』の見解 眞衣(巨摩郡武川筋) 今乃牧原村の地なり。郷名にも記せり。牧原は駒嶽、鳳凰山の東麓の地にして地廣遼き所なり。今は盡き田となれり。古歌に御眞衣の原と読めり。 名は高き木曾の梯引はたしみ 牧の原や戀しかるらん 作者不知 …

甲斐の御牧 穂坂牧・真衣野牧・柏前牧『甲斐名勝志』の見解

穂坂牧・真衣野牧・柏前牧『甲斐名勝志』の見解 延喜式所載御牧三甲斐御牧考曰、柏前殊ニ不可然ルニ式 ニ所載之牧都テ三處而、穂坂・眞衣野既ニ在巨摩郡ニ 因テ思フニ之逸見ニ又有樫山村北與信界土極テ勁寒曠 邃【すい】而多ク産駒ヲ于今州民皆取給ヲ焉其稱…

甲斐の御牧 柏前の牧『甲斐叢記』の見解

柏前の牧『甲斐叢記』の見解 樫山村に柏前牧と云ひ伝る処あり。「野馬平」、「南牧ヨセ」、「北牧よせ」、「懸札」等云ふ地在せり。小念とて念場原に続きたる寛曠き原なり。古史に見えたる柏前の地後世審かなら ず。 山梨郡柏尾に尾崎林なと云處ありて、黒駒…

甲斐の御牧と地域歴史書 和歌の世界の混乱

甲斐の御牧と地域歴史書 混乱する和歌の世界 (小笠原、逸見、みつ(美豆)、御牧) 《筆者注》六帖夫木集云歌集題駒牽甲斐或伊豆とある。 都までなつけてひくは小笠原 へみの御牧の駒にや有ける 紀貫之 小笠原みつの御牧にあるゝ駒 もとればぞ馴るこらが袖…

聖徳太子が甲斐の黒駒に乗る

聖徳太子が甲斐の黒駒に乗る 甲斐の駒に関連した興味深い記事がある。それは『日本書紀』の推古天皇六年四月に甲斐国より「黒身ニシテ白髭尾ナリ云々」とあり、『聖徳太子伝略』には推古天皇六年(五九七)四月に「甲斐国より馬が貢上された。黒身で四脚は白…

甲斐の勅使牧(御牧)穂坂牧 真衣野牧 柏前牧

甲斐の勅使牧(御牧) 甲斐、信濃、武蔵、上野に設けられた御牧は朝廷直轄の勅使牧である。『延喜式』によると牧には勅使牧の他に近都牧、諸国牛馬牧の三種に区別され、勅使牧は近都牧と同様左右馬寮の所管である。 〔註〕『延喜式』 醍醐天皇の勅を受けた藤…

日本南アルプス 甲斐駒ヶ岳

日本南アルプス 小島鳥水『現在登山全集』「北岳 甲斐駒 赤石」 昭和36年 創元新社刊(一部加筆) 日本南アルブスは、赤石山系をいう、赤石山系の大体の走向は、関東山系の西に、ほとんど直角をなして、所属の高山大岳は富士川の西方、天竜川の東方に列座し…