聖徳太子が甲斐の黒駒に乗る

聖徳太子が甲斐の黒駒に乗る


甲斐の駒に関連した興味深い記事がある。それは『日本書紀』の推古天皇六年四月に甲斐国より「黒身ニシテ白髭尾ナリ云々」とあり、『聖徳太子伝略』には推古天皇六年(五九七)四月に「甲斐国より馬が貢上された。黒身で四脚は白毛であった。太子はこの馬を舎人調子麿に命じて飼育させ秋九月に太子はその黒駒に乗り富士山の頂上に登り、それより信濃に到った云々」とある。この話は後世に於いて黒駒の牧場の所在地の根拠や地名比定及び神社仏閣の由緒に利用されている。『聖徳太子伝略』の真偽はともかく甲斐の黒駒のその速さは中央では有名であったことである。
天武天皇元年(六七二)には壬申の乱が起きた。この時将軍大伴連吹負の配下甲斐の勇者(名称不詳)が大海人皇子軍に参戦し、活躍している。大伴連吹負は『古代豪族系図集覧』によれば
大伴武日―武持―佐彦―山前―金村の子で、金村には甲斐国山梨評山前邑出身の磐や任那救援将軍の狭手彦それに新羅征討将軍の昨などがいて、吹負はこの昨の子とある。
また金村を祖とする磐の一族には山梨郡少領、主帳、八代郡大領など輩出している名門である。
天平九年(七三七)には甲斐国御馬部領使、山梨郡散事小長谷部麻佐が駿河国六郡で食料の官給を受けた旨が記されている。(『正倉院文書、天平十年駿河正税帳』による』)(『古代豪族系図集覧』によれば小長谷部麻佐は甲斐国造の塩海宿禰を祖とする壬生倉毘古の子)天長四年(八二七)には太政官符に「甲斐国ニ牧監ヲ置クノ事」の事としてこの当時甲斐の御牧の馬の数は「千余匹」であると記している。
さてここまで甲斐の駒や御牧と北巨摩地域との関連はみえない。武川村の牧ノ原(牧野原)と真衣野の語句類似と真衣郷(比定地不明)結びつけて、あたかも古代御牧の一つが現在の武川村牧ノ原に所在したと言う定説は無理がある。
牧ノ原の地名は古代ではなく中世以降の可能性もあり、真衣郷を武川村周辺に比定しているがこれさえ何等根拠のあるものではない。こうした説は『国志』から始まる。それは
  真衣、萬木乃と訓す。又用真木野字古牧馬所今有牧ノ原、
又伴余戸惣名武川は淳川なり。云々。
『国志』の記載内容は当時としてはよく調べてある。しかし盲信することは危険である。『国志』以前や以後の文献資料を照らし合わせてその結果『国志』の記載と附合符合すれば概ね正しいと思われるが、『国志』一書の記載を持って正しいとは言えない。甲斐の歴史を探究する人々が『国志』から抜け出せないのは情けない話である。
「まき」「まきの」「まき」の地名は甲斐の他地域にも存在した。同じ『国志』に栗原筋の馬木荘、現在の牧丘町に残る牧の地名、櫛形町の残る地名牧野、甲斐に近接した神奈川県の牧野(『国志』-相模古郷皆云有牛馬之牧)もある。その他にも御坂町に見られる黒駒地名や「駒」に関連する地名は多い。
甲斐には間違いなく三御牧は存在した。これは確実な事で、あるが、その所在地域を限定できない。御牧跡地を示す遺跡や史料の少なさが地名比定の歴史を生む要因である。これは山梨県だけではなく全国的な様相である。隣の長野県には有名で最後まで貢馬をした望月の牧がある。長野県には十七御牧があったがその所在地にとなると不明の牧も多い。古墳から出土する馬具などから四世紀後半には乗馬の風習があったと推察できる。