〔芭蕉、水道工事関与・宗匠〕

芭蕉、水道工事関与・宗匠

芭蕉が江戸神田上水の工事に関係していたというのは、この頃から延宝八年までの四年問と思われる。一方既に俳諮の宗匠となっていたらしく、その披露の万句興行もし、延宝六年正月には、宗匠として歳且帳も出したらしい。延宝八年に刊行された『桃青門弟独吟二十歌仙』は彼の宗匠としての確乎たる地位を示すものといえる。杉風・ト尺・螺舎(其角)・嵐亭(嵐雪)以下二十名の作品集で、それぞれに今までの風調と違った新しい格調をそなえた作品集である。驚くべきことに、僅か数年の間に、彼を中心として、これだけの俊秀が集まり、俳壇の最先端に位置していたのである。 また其角・杉風の句に彼が判詞を加えた『田舎句合」・『常盤屋句合』もこの年の山版である。

ここにうかがわれる芭蕉の考えも、まさにさきの『二十歌仙』にほの見えた新しい傾向、漢詩文への指向を示して、次の新しい風体の前ぶれとなる。この年の冬、芭蕉は市中の雑踏を避けて、深川の草庵に入った。杉風の生洲屋敷だったといわれ、場所は小名木川隅田川に注ぐ川口に近く、現在の常盤町一丁目十六番地にあたる。洋々たる水をたたえる隅田川三ツ股の淀を西に、小名木川の流れを南にして、附近は大名の下屋敷などが多く、芦の生いしげる消閑の地である。草庵を名づけて、杜甫の句をもじって泊船堂としゃれこんだ。草庵の貯えとては菜刀(庖丁)一枚、米五升入りの瓢一つ、客来にそなえて茶碗十という簡素な生活である。すべてを放下して俳諧に遊ぼうというのである。門人李下の贈った芭蕉の株がよく根づいて、大きな葉を風にそよがせるようになる。

〔芭蕉の生涯 芭蕉の生たち〕

芭蕉の生涯 芭蕉の生たち〕

 芭蕉寛永二十一年(1644)甲申の年に生れた。西鶴より二つ年下、近松より九才年長ということになる。もっとも、これは残年などから逆算して知り得ることで、したがって生れた月日はわからない。この年は十二月二十三日に改元があり、芭蕉の誕生がこの日以後であれば、正確には正保元年生れということになる。徳川三代将軍家光の治世、江戸開幕以来僅か四十年を経たばかりであるが、幕藩体制も漸く整い、島原の乱も平定し鎖国が令せられて、いわゆる三百年の太平がはじまった頃である。生れた所は伊賀上野の赤坂町、現在の三重県上野市赤坂町である。四周を山に囲まれて静かに眠る伊賀盆地、その中央やや北よりの台地に位置する上野の街、それが芭蕉の故郷である。上野の街の東のはずれ、柘植方面からの街道が上野に入る坂を登りきったところ、赤坂町に現在も芭蕉生家が建っている。建物は安政地震後の再建というが、位置は変っていないはずである。

 

芭蕉の生涯 芭蕉の生れた頃の上野〕

 芭蕉の生れた頃の上野は藤堂家の領地で、藤堂家は伊勢の安濃津(津市)を木城として、伊勢伊賀をあわせ領し、上野には七干石の城代を置いて、伊賀一国を治めさせた。しかし僅か七干石の域下として上野のイメージを描いてはならない。上野の地は、元来戦国の世には筒井定次(十二万石)の城下であったのを、江戸時代になって、慶長十三年(一六〇八)に、藤堂高虎が四国の今治から二十二万九百石をもって伊勢に移封され、この地をあわせ領することになったものである。

幕府が名将藤堂高虎をここに移したのは、当時まだ反抗勢力の中心であった大阪方に対する戦略的配慮の結果といわれる。上野はその位置からも、大阪の東国進出に対する隆路口を掘して、要衝の地である。土木築城の名手高焼は、新たに城取り縄張りをして城郭を改修構築し、城下町を拡張整備して、大いに新しい街づくりに努めた。その結果上野の町は、城も街も、優に数万石の城下にも相当する威容を備えていることになる。現在も遺る白鳳城の雄大な遺構、深い濠、高い石垣、あるいは長屋門に武者窓の旧武家屋敷のつづく整った街なみは、往時の威容を想像させるのに十分である。芭蕉のころの上野の町も、街の規模は大きく整っていて、しかも実質は人少なで物静かな、一種古都に似た落ちつきと風格をそなえていたに違いない。芭蕉の出自、周囲の肉親の関係などは、すべて確実な資料を欠き、従来の伝記家の推測でとりまかれ、おぼろげな臆測で覆われている。芭蕉の父は松尾与左衛門、母は名はわからないが、四国宇和島の人で、桃地氏の出だという。半左衛門と名乗る兄のほか、姉一人妹三人があったらしい。松尾家の家系は元来平家の流れをひき、父与左衛門の代に、柘植から上野に移って来たものと推定されている。身分家格もはっきりしなむそくにんいが、藤堂家でいう無足人という身分ではなかったかという説がある。無足人というのは、武士と農民との巾間的な身分、郷士(上級の農民)であったらしい。

 当時の古絵図を見ても、生家のある赤坂は農人町と接しており、身分職業によって居住区域を分かつ城下町の通例を考えると、この推測は当を得たものと思われる。父は手習いの師匠をしていたと伝えられ、芭蕉も藤堂家に出仕するし、全くの百姓ではなかったことは事実であるが、普通に考えられるような武士社会の環境とは、よほど違った、もっと土の匂いの濃い生活環境が彼のものであったと思われる。幼名を金作、藤堂新七郎家に仕えて甚七郎宗房といった。幼名通称については異説も多い。宗房というのはその名乗りで、これをこのまま俳号として用いることになる。

奈良田(現,早川町) 「奈良王の舊蹟」

奈良田(現,早川町) 「奈良王の舊蹟」

 

 『甲斐国志』 巻之五十一 古蹟部第十四

 

 

 本村は深山幽僻ニシテ種植に宜しからす、田租徭役免許の古印章等を蔵む。里人奇異を傳へて相誇る昔時某帝此所に遷幸あり。是を「奈良王」と称す。皇居たる故を以て十里四方萬世無税の村なりと云云。東南の方に高さ二町許登りて平なる所方三十歩あり。即ち皇居たる址と云。その中に小神祠一座を置き奈良王を祭る供養の公卿大夫の居りし所、姫宮と云所もあり。奈良王御製ノ歌一章神祖嘗て御案行ありし書して給へりとて秘蔵す。

   難波かたかすまぬなみももかすみけり

          うつるもくもる朧月夜に

 

 按ずるにこの歌は新古今集に、題しらす 源具親

 (作者部類に左京権太夫師光寺佐少将正四位下如舜とあり)

 と見えて奈良王の歌には非ず。昔時帝王の本州に遷座ありし事、國史諸記に所見なしといえども、異本曾我物語に大草郷奈良田村、芦倉村などは工藤荘司が知行所とあり。往時深山に人の多く住せし事以って微すべし。

 況や上世の□かなる絶えて、その事無しと云ふべからず。

 この処に早川の水源野呂川と云うあり。残簡風土記に巨麻郡西限に木賊河とあル所にて白峯諸山を隔て信州伊奈郡大草郷なり、之因本州にても大草郷と見ゆ。山川の界は多く、武河筋に属す。本村は白峰の南に在り。古今の騒人甲斐が峯とも詠ず。また蜀の雪嶺に比して此にも西山と称したり。地名筌に云う、彼公孫卓據に西山頂築焉、西方之神を祭る。

白帝城と号す者、また奈良王の事と似ると云々。

或いは奈良王とは、孝謙天皇に御座ませましと云う伝へたるに泥ミ(?)

 

 徂徠(荻生)の峡中紀行に

 

   鳳皇山則神鳥来栖処、字或作法王、法王大日也、

   現瑞山上或曰、法王諦東時、陟此山望京師、

   予疑其為道鏡也、

 

 と可然談にもまた此事を記せり。誣妄ノ説なり。道鏡法王と称し並に下野州に諦せられ彼所にて死せる事『績日本紀』に見えたり。且つ今に舊迹も伝はりし由、本州には據なき事なり。按ずるに讃州白峯天王は嵩徳院の尊霊を祀る諸國に往々白峯の札あり。本州の白峯は祭神憐慥ならず。神主家の説には日の神を祀ると云とも、若しくは古へ、嵩徳院の御霊会を此処にて行はれし事ありて後世唱え違ひ奈良王の事となしたるか。また初め嵩徳院この処に脚遷座ありしによりて讃州にも白峯神社と奉祀か御製の歌に

 

        百首御歌(夫木集)

   甲斐かねは山のすかたもうつもれて

             雪の半ばにかゝる白雲

 又後鳥羽院御製に

    旅の御歌の中に(新拾遺集

          さらぬたにみやこ恋しき東路に

                   なかむる月のにしへ行かな

        題しらす(御集)

   雪しろき甲斐のしらねのさゝの庵

           やとれる袖にやとる月影

 

 奈良田のいいつたえ

    『早川のいいつたえ』第三集 「奈良田のいいつたえ」 

         早川町教育委員会 刊三井敬心氏著

 

奈良田のいいつたえ「塩の池」(抜粋)

 奈良田の七不思議を並べてみると、

  一、 二羽がらす   (にわがらす)

  二、 洗濯池       (せんたくいけ)

  三、 塩の池       (しおのいけ)

  四、 御付水       (ごふみず)

  五、 染物池       (そめものいけ)

  六、 片葉の葦     (かたはのあし)

  七、 奈良田七段   (ならだしちだん)

 となりますが、そのほとんどが、奈良王さま(孝謙天皇 こうけんてんのう)につなが

っています。

 塩の池もこのひとつで、山奥で、ほかの土地との交流が少ない奈良田では、人間生活に

欠かせない塩がなかなか手に入らなくて、困っていました。

この地に、仮宮を建てられた奈良王さまは、あわれに思われて、地の神にこの難儀を救っ

てくれるように頼みました。

 ほかならぬ王の頼みを聞いて、地の神は、塩気の多い泉を湧き出させせてくれました

が、これによって、里人たちは食べ物の味つけができるようになりました。

 この塩の池は、現在、集落の反対側、つまり、湖を超したところにあります。町では、

観光施設のひとつとして、数年前、この湖に、とても長いつり橋をかけました。

 これを渡っていくと、ちよっと公園風になったところがあって、塩の池もここにありま

すから、でかけてみてください。

 小さな泉にすぎませんが、塩分は濃くて、この水を煮詰めますと、たしかに、粒子がと

れます。

 かっては、製塩し、奈良田の名物として、売ったこともあると聞いています。いつだっ

たか、子供たちが理科の実験に、煮詰めてつくった、この池野塩を、ちよっとなめてみま

したが、塩化カルシュウム九九パーセントの食塩と違って、やわらかい塩味がありまし

た。洗濯池やら、染物池と、なかなかボランテァ精神旺盛な孝謙天皇さま、本当に奈良田

においでにおいでになかったのか。

 

「まあ、ここでは、そうした歴史上の詮索(せんさく)は、いらんちゅうこんどう。

                                                 (いらないということですよ)

 だそうである。

 この「早川のいいつたえ」は第一集から第四集まで、編集されていて、私も奈良田には

数度訪れているが、その折、手に入れたもので、教育委員会や筆者の三井敬心氏の御努力

に敬意を表したい。早川町には、岐阜地方の民謡とされる「加賀」「八幡」などが伝承さ

れている。魅力いっぱいの早川町である。

 

 でも気になるので調べてみました。

 

   参考資料 『歴代天皇の年号事典』 米川雄介氏編

                        

途中、ふり仮名がありませんが、適当に読んで下さい。

 

  女性ではじめての天皇 孝謙(称徳)天皇 こうけん(しょうとく)

 

養老二年(718)聖武天皇の第一皇女として誕生。母は光明皇后。諱を阿倍といい、天平宝字(てんぴょうほうじ)二年(七五八)上台宝字称徳孝謙皇帝(じようだいほうじしようとくこうけんこうてい)の尊号を上(たてまつ)られ、また高野姫尊・高野天皇とも称された。

 天平十年(738)女性としてはじめての皇太子となり、天平勝宝元年(七四九)七月聖武天皇の退位を受けて即位した。在位中の政治は母光明皇太后と寵臣藤原仲麻呂恵美押勝 えみのおしかつ)の施策によるところが多かったとみられる。

 

 聖武太上天皇の崩後の、遺詔(いしょう)よる皇太子道祖王(ふなどおう)を廃して、仲麻呂と親しい大炊王(おおいおう、淳仁天皇 じゅうじん)を立て、天平宝宇二年八月、に位を譲った。同四年光明皇太后が崩じ、翌年天皇とともに近江保良宮(おうみのほらのみや)に記御幸したが、そのころから両者の不和が顕在化した。すなわち、保良宮上皇が看病僧道鏡を寵愛したのが起因であった。

 平城宮に還御(かんぎょ)すると、天皇中宮院に、上皇法華寺にと別居し、六年六月上皇は軒を百官集めて、国家の大事と賞罰のことを行うと宣言した。淳仁天皇と結んだ藤原仲麻呂は窮地におちいり、八年九月兵乱(恵美押勝の乱)を起した。上皇はこれを討滅し、道鏡を大臣禅師に任じ、淳仁天皇を廃して淡路に流し、みずから重祚し、称徳天皇という。以後、天皇道鏡を信任して重く用い、天平神護元年(765)には太政大禅師、翌二年には法王とした。道鏡法王宮職をおき、政治を専断したが、やがて宇佐八幡神の託宣と称して皇位につこうとした。しかし和気清麻呂による託宣の否認によってその企ては失敗し、天皇宝亀元年(770)八月四日一崩御した。時に年五十三。大和添下郡高野陵(たかののみささぎ)に葬られた。天皇は在位中父聖武天皇発願の東大寺大仏の開眼供養会(かいげんくようえ)を行いまた恵美押勝の乱平定を祈願して西大寺を造営し、乱後には三重小塔二万基(百万塔)を造るなど仏教興隆に尽くしたが、他方、仏教は政治と癒着し、道鏡専制を許すことともなった。

 

  参考資料 北山茂夫『日本古代政治史の研究』

   同 『女帝と道鏡』(『中公新書』一九二

上田上昭 『日本の女帝』(『講談者現代新書』三三七) 

   中川収『奈良朝政冶史の研究』(林陸朗)

 

  じゅうそ【重祚】一度位を退いた天皇が、ふたたびその位につくこと。

中村星湖(せいこ)略歴 

中村星湖(せいこ)略歴  明治十七年十二月十二日、南都留中村星湖(せいこ)略歴  明治十七年十二月十二日、南都留郡河口村(現河口湖災町河口)に生まれる。  本名将(まさ)為(ため) 河口小学校から県立甲府中学(現甲府第一高等学校)経て、早稲田大学文学部英文科にすすみ、文学を学ぶ。大学在学中坪内逍遥島村抱月など自然主義文学の先駆者に師事し、明治三十九年夏、執筆した長編小説『少年行』が早稲田文学懸賞募集小説の一等に入選し、一躍文壇に名を成した。以後作家として各方面に活躍する一方外国文学の翻訳にも力を注ぎ。とりわけフロ-ベルの『ボヴァリー夫人」の和訳は、当時大きな注目を浴び、やがてフランス留学のきっかけともなった。  郷土での活躍は東京在住の県出身文化人を中心とする「山人会」の結成「富士五湖文化協会」の設立、山梨日日新聞のサンデー文壇の審査員、県芸術祭講師・など県内文化の発展に貢献する傍ら、地元河口湖町の耕地整理組合長・教育委員長行などにも押され、郷土文化の父として、昭和三十一年度、山梨県文化功労者の表彰を受け、昭和四十九年四月十三日、九十一歳の高齢で永眠した。 郡河口村(現河口湖災町河口)に生まれる。  本名将(まさ)為(ため) 河口小学校から県立甲府中学(現甲府第一高等学校)経て、早稲田大学文学部英文科にすすみ、文学を学ぶ。大学在学中坪内逍遥島村抱月など自然主義文学の先駆者に師事し、明治三十九年夏、執筆した長編小説『少年行』が早稲田文学懸賞募集小説の一等に入選し、一躍文壇に名を成した。以後作家として各方面に活躍する一方外国文学の翻訳にも力を注ぎ。とりわけフロ-ベルの『ボヴァリー夫人」の和訳は、当時大きな注目を浴び、やがてフランス留学のきっかけともなった。  郷土での活躍は東京在住の県出身文化人を中心とする「山人会」の結成「富士五湖文化協会」の設立、山梨日日新聞のサンデー文壇の審査員、県芸術祭講師・など県内文化の発展に貢献する傍ら、地元河口湖町の耕地整理組合長・教育委員長行などにも押され、郷土文化の父として、昭和三十一年度、山梨県文化功労者の表彰を受け、昭和四十九年四月十三日、九十一歳の高齢で永眠した。

日本昔ばなし 雀(すずめ)と啄木鳥(きつつき) 

日本昔ばなし 雀(すずめ)と啄木鳥(きつつき) 

  

 柳田国男全集 大正元年版 一部加筆

 

 むかしのむかし、雀(すずめ)と啄木鳥(きつつき)とは二人の姉妹であったそうです。

親が病気でもういけないという知らせの来た時に、

雀はちやうどお歯黒をつけかけていましたが、

すぐに飛んで行って看病をしました。

それで今で頬っぺたが汚れ、嘴(くちばし)も上の半分だけはまだ白いのであります。

啄木鳥の方は紅をつけ白粉をつけ、

ゆっくりおめかしをしてから出かけたので、

終に大事な親の死に目に逢うことが出来ませんでした。

だから雀は、姿は美しくないけれども、いつも人間の住む所に住んで、

人間の食べる穀物を、入用なだけ食べることが出来るのに、

啄木鳥は御化粧ばかり綺麗でも、朝は早くから森の中を駆けあるいて、

「がつか・むつか」と木の皮をたたいて、

一目にやっと三匹の畠しか食べることが出来ないのだそうです。

そうして夜になると樹の空洞に入って、

「おわえ、嘴(くちびる)が病めるでや」と泣くのだそうです。(津軽

歴史の中の子供たち 野上の浮浪児

歴史の中の子供たち 野上の浮浪児

 

 『アサヒグラフに見る昭和の世相‐6』(朝日新聞社刊)から。

 

駅構内の鉄骨にもたれかかり、何かを見つめている少年。

右下には、「ボロをつけ、はだしとなり、

相当な垢をためた古参者の一種独特の顔付」

との説明がある。

この少年、空襲で家を焼かれ、親を奪われた戦災孤児なのであろうか、

ノガミ(上野)のモグラミチ(地下道)を寝ぐらに暮らす、

浮浪児の一群に身を寄せたのである。

 敗戦翌年の七月、『アサヒグラフ』は「小さき生の営み」と題して、

上野駅周辺に生きる「浮浪児」の生活ぶりを報じている。

彼らは闇市でのごみあさり、物乞い、モクヒロイ(煙草の吸い殼拾い)、

靴みがき、外食券の密売などをして飢えをしのぎ、

必死に生きていたのだ。ときおり、

当局の、「狩り込み」にあって施設に収容されたりしたが、

たちまち仲間と脱走して焦土を徘徊する自由を選んだのであった。

 ところで、長野県松代大本営跡地に

戦災孤児収容施設・恵愛学園が設けられたが、

敗戦二年後の秋、

信越「巡幸」中の「昭和」天皇がそこの園児たちに対面した。

そのとき、あの「聖戦」を断行した天皇は園長の紹介に、

「あ、そう、戦災孤児か」「明るい気持ちで、元気にやってネ」

と言って、ただ園児の頭を撫でるだけであったという。

歴史の中の子供たち 若者宿

歴史の中の子供たち 若者宿

 

山ロ県玉江浦の若者宿で

民俗学研究所編『日本民俗図舗』朝日新聞社1959年刊から)

 夕食をすませた若者たちが、宿の前庭に集まっている。

いずれも揮姿の裸で、全身日焼けしてたくましい。

つい今しがたまで、めいめい家の仕事に従っていたのだが、

ここでは何やら漁具のつくろいに励んでいる。

作業の手を進めながら、たがいに軽ロを叩きあったり、

世間話に打ち興じたりして、一時を過すのである。

 かつて男子は、年齢が一五ないし一七歳に達すると、

若者組とか、若連中、祖粉などと呼ばれる年齢集団に、

入るのが一般的な風習であったという。

一人前の成年になるための訓練をうけるのである。

若者たちは宿に寝とまりして、若者頭や宿親の続李下で、

それこそきびしいしつけをうけた。

その若者組の機能のなかで、

婚姻と労働の二つがもっとも重要なものであったといわれている。

 しかし、近代に入り、

青年団組織が、若者組にとってかわるようになると、

直接婚姻に関与することはなくなった。

こうして、若者組の存在意義も、大半は失われていったのだが、

それでも労働力をT時的に結集することの必要な漁村などでは、

おそくまで若者組が残され、活動を続けたという。