奈良田(現,早川町) 「奈良王の舊蹟」

奈良田(現,早川町) 「奈良王の舊蹟」

 

 『甲斐国志』 巻之五十一 古蹟部第十四

 

 

 本村は深山幽僻ニシテ種植に宜しからす、田租徭役免許の古印章等を蔵む。里人奇異を傳へて相誇る昔時某帝此所に遷幸あり。是を「奈良王」と称す。皇居たる故を以て十里四方萬世無税の村なりと云云。東南の方に高さ二町許登りて平なる所方三十歩あり。即ち皇居たる址と云。その中に小神祠一座を置き奈良王を祭る供養の公卿大夫の居りし所、姫宮と云所もあり。奈良王御製ノ歌一章神祖嘗て御案行ありし書して給へりとて秘蔵す。

   難波かたかすまぬなみももかすみけり

          うつるもくもる朧月夜に

 

 按ずるにこの歌は新古今集に、題しらす 源具親

 (作者部類に左京権太夫師光寺佐少将正四位下如舜とあり)

 と見えて奈良王の歌には非ず。昔時帝王の本州に遷座ありし事、國史諸記に所見なしといえども、異本曾我物語に大草郷奈良田村、芦倉村などは工藤荘司が知行所とあり。往時深山に人の多く住せし事以って微すべし。

 況や上世の□かなる絶えて、その事無しと云ふべからず。

 この処に早川の水源野呂川と云うあり。残簡風土記に巨麻郡西限に木賊河とあル所にて白峯諸山を隔て信州伊奈郡大草郷なり、之因本州にても大草郷と見ゆ。山川の界は多く、武河筋に属す。本村は白峰の南に在り。古今の騒人甲斐が峯とも詠ず。また蜀の雪嶺に比して此にも西山と称したり。地名筌に云う、彼公孫卓據に西山頂築焉、西方之神を祭る。

白帝城と号す者、また奈良王の事と似ると云々。

或いは奈良王とは、孝謙天皇に御座ませましと云う伝へたるに泥ミ(?)

 

 徂徠(荻生)の峡中紀行に

 

   鳳皇山則神鳥来栖処、字或作法王、法王大日也、

   現瑞山上或曰、法王諦東時、陟此山望京師、

   予疑其為道鏡也、

 

 と可然談にもまた此事を記せり。誣妄ノ説なり。道鏡法王と称し並に下野州に諦せられ彼所にて死せる事『績日本紀』に見えたり。且つ今に舊迹も伝はりし由、本州には據なき事なり。按ずるに讃州白峯天王は嵩徳院の尊霊を祀る諸國に往々白峯の札あり。本州の白峯は祭神憐慥ならず。神主家の説には日の神を祀ると云とも、若しくは古へ、嵩徳院の御霊会を此処にて行はれし事ありて後世唱え違ひ奈良王の事となしたるか。また初め嵩徳院この処に脚遷座ありしによりて讃州にも白峯神社と奉祀か御製の歌に

 

        百首御歌(夫木集)

   甲斐かねは山のすかたもうつもれて

             雪の半ばにかゝる白雲

 又後鳥羽院御製に

    旅の御歌の中に(新拾遺集

          さらぬたにみやこ恋しき東路に

                   なかむる月のにしへ行かな

        題しらす(御集)

   雪しろき甲斐のしらねのさゝの庵

           やとれる袖にやとる月影

 

 奈良田のいいつたえ

    『早川のいいつたえ』第三集 「奈良田のいいつたえ」 

         早川町教育委員会 刊三井敬心氏著

 

奈良田のいいつたえ「塩の池」(抜粋)

 奈良田の七不思議を並べてみると、

  一、 二羽がらす   (にわがらす)

  二、 洗濯池       (せんたくいけ)

  三、 塩の池       (しおのいけ)

  四、 御付水       (ごふみず)

  五、 染物池       (そめものいけ)

  六、 片葉の葦     (かたはのあし)

  七、 奈良田七段   (ならだしちだん)

 となりますが、そのほとんどが、奈良王さま(孝謙天皇 こうけんてんのう)につなが

っています。

 塩の池もこのひとつで、山奥で、ほかの土地との交流が少ない奈良田では、人間生活に

欠かせない塩がなかなか手に入らなくて、困っていました。

この地に、仮宮を建てられた奈良王さまは、あわれに思われて、地の神にこの難儀を救っ

てくれるように頼みました。

 ほかならぬ王の頼みを聞いて、地の神は、塩気の多い泉を湧き出させせてくれました

が、これによって、里人たちは食べ物の味つけができるようになりました。

 この塩の池は、現在、集落の反対側、つまり、湖を超したところにあります。町では、

観光施設のひとつとして、数年前、この湖に、とても長いつり橋をかけました。

 これを渡っていくと、ちよっと公園風になったところがあって、塩の池もここにありま

すから、でかけてみてください。

 小さな泉にすぎませんが、塩分は濃くて、この水を煮詰めますと、たしかに、粒子がと

れます。

 かっては、製塩し、奈良田の名物として、売ったこともあると聞いています。いつだっ

たか、子供たちが理科の実験に、煮詰めてつくった、この池野塩を、ちよっとなめてみま

したが、塩化カルシュウム九九パーセントの食塩と違って、やわらかい塩味がありまし

た。洗濯池やら、染物池と、なかなかボランテァ精神旺盛な孝謙天皇さま、本当に奈良田

においでにおいでになかったのか。

 

「まあ、ここでは、そうした歴史上の詮索(せんさく)は、いらんちゅうこんどう。

                                                 (いらないということですよ)

 だそうである。

 この「早川のいいつたえ」は第一集から第四集まで、編集されていて、私も奈良田には

数度訪れているが、その折、手に入れたもので、教育委員会や筆者の三井敬心氏の御努力

に敬意を表したい。早川町には、岐阜地方の民謡とされる「加賀」「八幡」などが伝承さ

れている。魅力いっぱいの早川町である。

 

 でも気になるので調べてみました。

 

   参考資料 『歴代天皇の年号事典』 米川雄介氏編

                        

途中、ふり仮名がありませんが、適当に読んで下さい。

 

  女性ではじめての天皇 孝謙(称徳)天皇 こうけん(しょうとく)

 

養老二年(718)聖武天皇の第一皇女として誕生。母は光明皇后。諱を阿倍といい、天平宝字(てんぴょうほうじ)二年(七五八)上台宝字称徳孝謙皇帝(じようだいほうじしようとくこうけんこうてい)の尊号を上(たてまつ)られ、また高野姫尊・高野天皇とも称された。

 天平十年(738)女性としてはじめての皇太子となり、天平勝宝元年(七四九)七月聖武天皇の退位を受けて即位した。在位中の政治は母光明皇太后と寵臣藤原仲麻呂恵美押勝 えみのおしかつ)の施策によるところが多かったとみられる。

 

 聖武太上天皇の崩後の、遺詔(いしょう)よる皇太子道祖王(ふなどおう)を廃して、仲麻呂と親しい大炊王(おおいおう、淳仁天皇 じゅうじん)を立て、天平宝宇二年八月、に位を譲った。同四年光明皇太后が崩じ、翌年天皇とともに近江保良宮(おうみのほらのみや)に記御幸したが、そのころから両者の不和が顕在化した。すなわち、保良宮上皇が看病僧道鏡を寵愛したのが起因であった。

 平城宮に還御(かんぎょ)すると、天皇中宮院に、上皇法華寺にと別居し、六年六月上皇は軒を百官集めて、国家の大事と賞罰のことを行うと宣言した。淳仁天皇と結んだ藤原仲麻呂は窮地におちいり、八年九月兵乱(恵美押勝の乱)を起した。上皇はこれを討滅し、道鏡を大臣禅師に任じ、淳仁天皇を廃して淡路に流し、みずから重祚し、称徳天皇という。以後、天皇道鏡を信任して重く用い、天平神護元年(765)には太政大禅師、翌二年には法王とした。道鏡法王宮職をおき、政治を専断したが、やがて宇佐八幡神の託宣と称して皇位につこうとした。しかし和気清麻呂による託宣の否認によってその企ては失敗し、天皇宝亀元年(770)八月四日一崩御した。時に年五十三。大和添下郡高野陵(たかののみささぎ)に葬られた。天皇は在位中父聖武天皇発願の東大寺大仏の開眼供養会(かいげんくようえ)を行いまた恵美押勝の乱平定を祈願して西大寺を造営し、乱後には三重小塔二万基(百万塔)を造るなど仏教興隆に尽くしたが、他方、仏教は政治と癒着し、道鏡専制を許すことともなった。

 

  参考資料 北山茂夫『日本古代政治史の研究』

   同 『女帝と道鏡』(『中公新書』一九二

上田上昭 『日本の女帝』(『講談者現代新書』三三七) 

   中川収『奈良朝政冶史の研究』(林陸朗)

 

  じゅうそ【重祚】一度位を退いた天皇が、ふたたびその位につくこと。