歴史の中の子供たち 野上の浮浪児

歴史の中の子供たち 野上の浮浪児

 

 『アサヒグラフに見る昭和の世相‐6』(朝日新聞社刊)から。

 

駅構内の鉄骨にもたれかかり、何かを見つめている少年。

右下には、「ボロをつけ、はだしとなり、

相当な垢をためた古参者の一種独特の顔付」

との説明がある。

この少年、空襲で家を焼かれ、親を奪われた戦災孤児なのであろうか、

ノガミ(上野)のモグラミチ(地下道)を寝ぐらに暮らす、

浮浪児の一群に身を寄せたのである。

 敗戦翌年の七月、『アサヒグラフ』は「小さき生の営み」と題して、

上野駅周辺に生きる「浮浪児」の生活ぶりを報じている。

彼らは闇市でのごみあさり、物乞い、モクヒロイ(煙草の吸い殼拾い)、

靴みがき、外食券の密売などをして飢えをしのぎ、

必死に生きていたのだ。ときおり、

当局の、「狩り込み」にあって施設に収容されたりしたが、

たちまち仲間と脱走して焦土を徘徊する自由を選んだのであった。

 ところで、長野県松代大本営跡地に

戦災孤児収容施設・恵愛学園が設けられたが、

敗戦二年後の秋、

信越「巡幸」中の「昭和」天皇がそこの園児たちに対面した。

そのとき、あの「聖戦」を断行した天皇は園長の紹介に、

「あ、そう、戦災孤児か」「明るい気持ちで、元気にやってネ」

と言って、ただ園児の頭を撫でるだけであったという。