〔芭蕉の生涯 芭蕉の生たち〕

芭蕉の生涯 芭蕉の生たち〕

 芭蕉寛永二十一年(1644)甲申の年に生れた。西鶴より二つ年下、近松より九才年長ということになる。もっとも、これは残年などから逆算して知り得ることで、したがって生れた月日はわからない。この年は十二月二十三日に改元があり、芭蕉の誕生がこの日以後であれば、正確には正保元年生れということになる。徳川三代将軍家光の治世、江戸開幕以来僅か四十年を経たばかりであるが、幕藩体制も漸く整い、島原の乱も平定し鎖国が令せられて、いわゆる三百年の太平がはじまった頃である。生れた所は伊賀上野の赤坂町、現在の三重県上野市赤坂町である。四周を山に囲まれて静かに眠る伊賀盆地、その中央やや北よりの台地に位置する上野の街、それが芭蕉の故郷である。上野の街の東のはずれ、柘植方面からの街道が上野に入る坂を登りきったところ、赤坂町に現在も芭蕉生家が建っている。建物は安政地震後の再建というが、位置は変っていないはずである。

 

芭蕉の生涯 芭蕉の生れた頃の上野〕

 芭蕉の生れた頃の上野は藤堂家の領地で、藤堂家は伊勢の安濃津(津市)を木城として、伊勢伊賀をあわせ領し、上野には七干石の城代を置いて、伊賀一国を治めさせた。しかし僅か七干石の域下として上野のイメージを描いてはならない。上野の地は、元来戦国の世には筒井定次(十二万石)の城下であったのを、江戸時代になって、慶長十三年(一六〇八)に、藤堂高虎が四国の今治から二十二万九百石をもって伊勢に移封され、この地をあわせ領することになったものである。

幕府が名将藤堂高虎をここに移したのは、当時まだ反抗勢力の中心であった大阪方に対する戦略的配慮の結果といわれる。上野はその位置からも、大阪の東国進出に対する隆路口を掘して、要衝の地である。土木築城の名手高焼は、新たに城取り縄張りをして城郭を改修構築し、城下町を拡張整備して、大いに新しい街づくりに努めた。その結果上野の町は、城も街も、優に数万石の城下にも相当する威容を備えていることになる。現在も遺る白鳳城の雄大な遺構、深い濠、高い石垣、あるいは長屋門に武者窓の旧武家屋敷のつづく整った街なみは、往時の威容を想像させるのに十分である。芭蕉のころの上野の町も、街の規模は大きく整っていて、しかも実質は人少なで物静かな、一種古都に似た落ちつきと風格をそなえていたに違いない。芭蕉の出自、周囲の肉親の関係などは、すべて確実な資料を欠き、従来の伝記家の推測でとりまかれ、おぼろげな臆測で覆われている。芭蕉の父は松尾与左衛門、母は名はわからないが、四国宇和島の人で、桃地氏の出だという。半左衛門と名乗る兄のほか、姉一人妹三人があったらしい。松尾家の家系は元来平家の流れをひき、父与左衛門の代に、柘植から上野に移って来たものと推定されている。身分家格もはっきりしなむそくにんいが、藤堂家でいう無足人という身分ではなかったかという説がある。無足人というのは、武士と農民との巾間的な身分、郷士(上級の農民)であったらしい。

 当時の古絵図を見ても、生家のある赤坂は農人町と接しており、身分職業によって居住区域を分かつ城下町の通例を考えると、この推測は当を得たものと思われる。父は手習いの師匠をしていたと伝えられ、芭蕉も藤堂家に出仕するし、全くの百姓ではなかったことは事実であるが、普通に考えられるような武士社会の環境とは、よほど違った、もっと土の匂いの濃い生活環境が彼のものであったと思われる。幼名を金作、藤堂新七郎家に仕えて甚七郎宗房といった。幼名通称については異説も多い。宗房というのはその名乗りで、これをこのまま俳号として用いることになる。