歴史の中の子供たち

歴史の中の子供たち

 

茨城県石岡町・石岡製糸所(1891年創設 

『画報日本近代の歴史』6(三省堂)から

 

製糸工場のなかで、多数の年若い工女たちが、忙しく働いている。

産業革命期、器械製糸といっても、繭から糸目を引きだしたり、

糸を巻糸枠につなぐなど主要な工程は、

依然として手先の労働に依存していた。

その労働を担ったのが、年少工女たちであった。

「忙がしき時は斡床を出でて直に業に服し、

夜業十二時に及ぶこと稀ならず。

食物はワリ麦六分、米四分、寝室は豚小屋に類して顧見るべからず。」

とは、横山源之助か『日本の下層社会』で記述するところである。

身売り同然の姿で親元から工場へ送られてきた彼女たちは、

過重な労働を強いられたのであった。

それは、彼女たちから就学の機会をとりあげただけでなく、

健康と成長をむしばみ、若い生命をも奪った。

 かような子どもの工場労働は、

かつての子どもの労働にみられた、

生産技術や労働能力を身につけるという教育的側面を失わせ、

子どもの労働のありようを一変させた。

それは、もっとも低廉な労働力をむさぼりとる賃労働そのものとなったのである。

 

歴史の中の子供たち 最初の女子留学生

歴史の中の子供たち 最初の女子留学生

 

左から永井繁子・上田貞子・吉益亮子・津田梅子・山川捨松)

 

一八七一 (明治四)年十二月のこと、

岩倉具視特命全権大使とする遣外使節団の一行を乗せた蒸汽船アメリカ丸が、

横浜港を出航した。この船には、五九名の海外留学生らが同乗したが、

そのなかにうら若い女子留学生か五人いた。

 最年少の津田梅子は、数え年でわずか八歳、その上の永井繁子は九歳で、

山川捨松が十一歳。年長の吉益亮子と上田貞子がともに一五歳であった。

いずれも士族の娘たちで、

明治新政府の開化政策にもとづく海外留学生派遣の企てに応じて、

アメリカヘ渡ることとなったのである。

「成業帰朝の上は婦女の模範にも相成候様心掛け」

と多大な期待をかけられ、留学期間は約一〇年間と定められていた。

 しかし、五人の少女のうち、年長の二人は健康上の理由で、一年足らずで帰国した。

 残る三人が十年間の留学を全うし、

津田と山川はさらに一年間延長して、一八八二(明治十五)年の秋に帰国した。

 世紀の壮挙だともてはやされた女子留学生派遣ではあったが、

最年少の津田だけが、教育界に身を投じ、

女子英学塾(のちの津田塾大学)の創設など日本の女子高等教育の開拓に活躍したものの、

他の二人は帰国後ほどなくして結婚し、家庭に入ってしまった。

これが官費による日本最初の女子留学生派遣の結末であった。

歴史のなかの子供たち ジャンケン 

歴史のなかの子供たち ジャンケン 

 

 夕暮れの戸外で、子どもたらが向きあって、じゃんけんに興している。

握った右手を、

チイ、リイ、サイ

といいながら三度ふったあと指を開く。

五指を全部開けば紙、

親指と人さし指の二本を出すと鋏、

五指みな握れば石である。

いうまでもなく、紙は鋏に負け、鋏は石に負け、石は紙に負ける。

負けていやな役に当ったのであろうか、

かたわらでは泣き出した子どももいる。

 ところで、紙・鋏・石の三竦(さんすく)みで勝負をきめる石拳(ジャンケン)が、

子どもたちの遊びの世界に登場するのは、江戸時代も後半になってからだ。

その源流は寛永年間に中国から長崎に伝米した火遊びにはじまるという。

長崎拳とか本拳などと呼ばれ、掛け声とともに手や指の動作で勝敗を競ったか、

もっぱら酒宴の座興にもてはやされた。それが各地に伝わり、

薩摩拳・箸拳など十数種の拳遊びが考案された。

 数当てを競うものと、三竦みで争うものとに大別されるというが、

後者の虫拳や狐拳・藤八拳の流れをくむものが石拳で、

各地の子どもらの間に広まった。

かつては、掛声などに地方色がみられたが、

いまはジャンケンポンと画一化された。

とはいえ、この日本独得の遊び、子ども遊びがある限り、

ほろびることなく伝えられていくことであろう。

歴史の中の子供たち いくさごっこ

歴史の中の子供たち いくさごっこ

 

『風俗画報』から

 鎮守の境内で、子どちらが二手に分れて擬戦に興している。

旭日旗を手にした日本車が清国軍を撃ちまかして、

「敵兵」を捕虜にしたというのである。

流行の軍服を着た子もいる。

 子どもの遊びには、時代の動きを反映して流行するものも少なくないといわれる。

軍歌をうたい、軍人に扮装して行進を真似したり、

旗章を掲げ、竹枝などを銃に擬して闘ったりする

「軍(いくさ)ごっこ」が、さかんに行われるようになったのは、

日清戦争以降のことで、この遊び、

京国強兵のかけ声のなかで勇壮な遊びとしてもてはやされたが、

子どもたちの心のなかには、

このような遊びを通して知らず知らずのうちに、

「敵国兵」に対する蔑視感が育てられ、

他国を侵略すらことに疑問を感じない気持が培われていったのである。

 いま、侵略を「進出」に改ざんさせる歴史の歪曲が押し進められているが、

 かつて子どもらの間に流行した遊びをみても、

ひきおこされた戦争の真実をおおいかくすことはできまい。

愛染明王(あいぜんみょうおう)

愛染明王(あいぜんみょうおう)

 

悪魔降伏のために、武器を持って立っている武の明王。また、愛欲のけがれに染まる人間苦を解脱させる明王でもある

 この明王、もとはインドにおいて、愛をつかさどっていた神でしたが、のちに仏教の真言密教の神となった。梵語のラーガリフージャの訳といわれています。

 さて、その容貌ですが、外面は荒々しい怒りの形相ものすごく、内面は愛情ひとすじの誠心が主体となっています。つまり、怒れば鬼神も気絶し、笑えば赤子も笑うという両面を備えている不思議な明王です。

 全身これ赤色で、三面六臂(六手)、頭に獅子頭の冠をのせ、怒った姿は怒髪天をつく、のたとえ

の通りです。それに蓮花の弓前ヽ弔肌八宝鈴ヽおよび五鈷を左右三双の手に握り、光炎のなかにすわり、その下に宝瓶(ほうびょう)とそれをとりまく諸種の宝形を描いています。

 その財宝は所有欲を、弓、矢、杵(しょ)は武力を現わし、それらによって災厄を消滅して安息が得られることを現わしています。そして、蓮華は解脱のしるしです。性欲、権勢欲、物欲のあきらめ、また満足という人間の本能にこたえる尊像という意味で、その強烈な表現は非常に人間的であり、欲求不満に苦しみつづけた中世の深刻な人問苦を端的に示しています。

 一体、仏さまといえば、円清、愛敬、柔和の相好ときまっているのに、この明王はなんと恐ろしい姿であろうと思われますが、そこは一忌魔、悪心降伏の明王というからには、これくらいの見幕をみせなければ、効能がないでしょう。

 天台宗では、この明王をまつる法、つまり「愛染明王法」を、六秘法の第四に数え、また、真言宗でも、寺ごとにこれを祀って、大小災害消除とあがめています。

 この動乱の世において、『国際迎合』あたりが、この明王さまをかかげたら平和を招来し、もっと効旱があるというものです。

 それに傑作なことには、この明王さま、内職として「美顔術」の大家となっています。光明立法真言の「御釈迦さまでも気がつくめエ」というものです。

 さてこの明王さま、平安、鎌倉、室町各時代を通じ、多数描かれました。密教の息災、敬愛、得福、修法の本尊においては、また当然といえます。

 今もそれらの名作が伝わっています。国宝級のものとしては、京都市醍醐寺仁和寺東京国立博物館のものか有名です。

毎月二十六日がこの明王の縁日で、縁は異なものというが、染め物業者は藍染と同音なので尊敬しています。

また、大阪は天王寺区夕陽丘町に愛染堂があり、本堂にこの「愛染明王」を祀っています。愛敬の神ともいわれ、特に花柳界、芸界などの人に信仰されるという大モテの神でもあります。

歴史の中の子供たち おはじき

歴史の中の子供たち おはじき

 

宮川春汀画(一八九六年刊『子ども遊戯風俗』から)

 

 着物姿の少女が二人、おはじきに興じている。

庭先の牡丹か大輪の花をつけており、もう初夏なのであろう。

 おはじきは、弾碁(だんき)という平安貴族の遊びに起源を発するという。

中国から伝来したもので、碁盤の上で白黒の碁石を弾きあって遊んだ。

ところが、庶民は碁盤などは使わず、老若男女ともども、

もっぱら小石を用いて石弾きに打ち興じた。

いつしか、この絵のように巻貝のキサゴが広く使われるようになり、

しかも女児中心の遺事となった。

 ばらまいたおはじきを順番にしたがって、弾いて取っていくのが基本だが、

地域により多彩な遊び方が伝承されていた。

また、「ちゅうちゅうたこかいな」などといった独特の数え方を伴った。

 明治中ごろからは、ガラス製のものが売り出されて全国に広まったが、

地域によって、「イシナゴ」とか「ツブ」、「ビイドロ」などと数多くの名称で呼ばれ、

そこには材料の移り変わりをよく伝えてくれていてたいへん興味深い。