日本昔ばなし 雀(すずめ)と啄木鳥(きつつき) 

日本昔ばなし 雀(すずめ)と啄木鳥(きつつき) 

  

 柳田国男全集 大正元年版 一部加筆

 

 むかしのむかし、雀(すずめ)と啄木鳥(きつつき)とは二人の姉妹であったそうです。

親が病気でもういけないという知らせの来た時に、

雀はちやうどお歯黒をつけかけていましたが、

すぐに飛んで行って看病をしました。

それで今で頬っぺたが汚れ、嘴(くちばし)も上の半分だけはまだ白いのであります。

啄木鳥の方は紅をつけ白粉をつけ、

ゆっくりおめかしをしてから出かけたので、

終に大事な親の死に目に逢うことが出来ませんでした。

だから雀は、姿は美しくないけれども、いつも人間の住む所に住んで、

人間の食べる穀物を、入用なだけ食べることが出来るのに、

啄木鳥は御化粧ばかり綺麗でも、朝は早くから森の中を駆けあるいて、

「がつか・むつか」と木の皮をたたいて、

一目にやっと三匹の畠しか食べることが出来ないのだそうです。

そうして夜になると樹の空洞に入って、

「おわえ、嘴(くちびる)が病めるでや」と泣くのだそうです。(津軽

歴史の中の子供たち 野上の浮浪児

歴史の中の子供たち 野上の浮浪児

 

 『アサヒグラフに見る昭和の世相‐6』(朝日新聞社刊)から。

 

駅構内の鉄骨にもたれかかり、何かを見つめている少年。

右下には、「ボロをつけ、はだしとなり、

相当な垢をためた古参者の一種独特の顔付」

との説明がある。

この少年、空襲で家を焼かれ、親を奪われた戦災孤児なのであろうか、

ノガミ(上野)のモグラミチ(地下道)を寝ぐらに暮らす、

浮浪児の一群に身を寄せたのである。

 敗戦翌年の七月、『アサヒグラフ』は「小さき生の営み」と題して、

上野駅周辺に生きる「浮浪児」の生活ぶりを報じている。

彼らは闇市でのごみあさり、物乞い、モクヒロイ(煙草の吸い殼拾い)、

靴みがき、外食券の密売などをして飢えをしのぎ、

必死に生きていたのだ。ときおり、

当局の、「狩り込み」にあって施設に収容されたりしたが、

たちまち仲間と脱走して焦土を徘徊する自由を選んだのであった。

 ところで、長野県松代大本営跡地に

戦災孤児収容施設・恵愛学園が設けられたが、

敗戦二年後の秋、

信越「巡幸」中の「昭和」天皇がそこの園児たちに対面した。

そのとき、あの「聖戦」を断行した天皇は園長の紹介に、

「あ、そう、戦災孤児か」「明るい気持ちで、元気にやってネ」

と言って、ただ園児の頭を撫でるだけであったという。

歴史の中の子供たち 若者宿

歴史の中の子供たち 若者宿

 

山ロ県玉江浦の若者宿で

民俗学研究所編『日本民俗図舗』朝日新聞社1959年刊から)

 夕食をすませた若者たちが、宿の前庭に集まっている。

いずれも揮姿の裸で、全身日焼けしてたくましい。

つい今しがたまで、めいめい家の仕事に従っていたのだが、

ここでは何やら漁具のつくろいに励んでいる。

作業の手を進めながら、たがいに軽ロを叩きあったり、

世間話に打ち興じたりして、一時を過すのである。

 かつて男子は、年齢が一五ないし一七歳に達すると、

若者組とか、若連中、祖粉などと呼ばれる年齢集団に、

入るのが一般的な風習であったという。

一人前の成年になるための訓練をうけるのである。

若者たちは宿に寝とまりして、若者頭や宿親の続李下で、

それこそきびしいしつけをうけた。

その若者組の機能のなかで、

婚姻と労働の二つがもっとも重要なものであったといわれている。

 しかし、近代に入り、

青年団組織が、若者組にとってかわるようになると、

直接婚姻に関与することはなくなった。

こうして、若者組の存在意義も、大半は失われていったのだが、

それでも労働力をT時的に結集することの必要な漁村などでは、

おそくまで若者組が残され、活動を続けたという。

 

歴史の中の子供たち

歴史の中の子供たち

 

茨城県石岡町・石岡製糸所(1891年創設 

『画報日本近代の歴史』6(三省堂)から

 

製糸工場のなかで、多数の年若い工女たちが、忙しく働いている。

産業革命期、器械製糸といっても、繭から糸目を引きだしたり、

糸を巻糸枠につなぐなど主要な工程は、

依然として手先の労働に依存していた。

その労働を担ったのが、年少工女たちであった。

「忙がしき時は斡床を出でて直に業に服し、

夜業十二時に及ぶこと稀ならず。

食物はワリ麦六分、米四分、寝室は豚小屋に類して顧見るべからず。」

とは、横山源之助か『日本の下層社会』で記述するところである。

身売り同然の姿で親元から工場へ送られてきた彼女たちは、

過重な労働を強いられたのであった。

それは、彼女たちから就学の機会をとりあげただけでなく、

健康と成長をむしばみ、若い生命をも奪った。

 かような子どもの工場労働は、

かつての子どもの労働にみられた、

生産技術や労働能力を身につけるという教育的側面を失わせ、

子どもの労働のありようを一変させた。

それは、もっとも低廉な労働力をむさぼりとる賃労働そのものとなったのである。

 

歴史の中の子供たち 最初の女子留学生

歴史の中の子供たち 最初の女子留学生

 

左から永井繁子・上田貞子・吉益亮子・津田梅子・山川捨松)

 

一八七一 (明治四)年十二月のこと、

岩倉具視特命全権大使とする遣外使節団の一行を乗せた蒸汽船アメリカ丸が、

横浜港を出航した。この船には、五九名の海外留学生らが同乗したが、

そのなかにうら若い女子留学生か五人いた。

 最年少の津田梅子は、数え年でわずか八歳、その上の永井繁子は九歳で、

山川捨松が十一歳。年長の吉益亮子と上田貞子がともに一五歳であった。

いずれも士族の娘たちで、

明治新政府の開化政策にもとづく海外留学生派遣の企てに応じて、

アメリカヘ渡ることとなったのである。

「成業帰朝の上は婦女の模範にも相成候様心掛け」

と多大な期待をかけられ、留学期間は約一〇年間と定められていた。

 しかし、五人の少女のうち、年長の二人は健康上の理由で、一年足らずで帰国した。

 残る三人が十年間の留学を全うし、

津田と山川はさらに一年間延長して、一八八二(明治十五)年の秋に帰国した。

 世紀の壮挙だともてはやされた女子留学生派遣ではあったが、

最年少の津田だけが、教育界に身を投じ、

女子英学塾(のちの津田塾大学)の創設など日本の女子高等教育の開拓に活躍したものの、

他の二人は帰国後ほどなくして結婚し、家庭に入ってしまった。

これが官費による日本最初の女子留学生派遣の結末であった。

歴史のなかの子供たち ジャンケン 

歴史のなかの子供たち ジャンケン 

 

 夕暮れの戸外で、子どもたらが向きあって、じゃんけんに興している。

握った右手を、

チイ、リイ、サイ

といいながら三度ふったあと指を開く。

五指を全部開けば紙、

親指と人さし指の二本を出すと鋏、

五指みな握れば石である。

いうまでもなく、紙は鋏に負け、鋏は石に負け、石は紙に負ける。

負けていやな役に当ったのであろうか、

かたわらでは泣き出した子どももいる。

 ところで、紙・鋏・石の三竦(さんすく)みで勝負をきめる石拳(ジャンケン)が、

子どもたちの遊びの世界に登場するのは、江戸時代も後半になってからだ。

その源流は寛永年間に中国から長崎に伝米した火遊びにはじまるという。

長崎拳とか本拳などと呼ばれ、掛け声とともに手や指の動作で勝敗を競ったか、

もっぱら酒宴の座興にもてはやされた。それが各地に伝わり、

薩摩拳・箸拳など十数種の拳遊びが考案された。

 数当てを競うものと、三竦みで争うものとに大別されるというが、

後者の虫拳や狐拳・藤八拳の流れをくむものが石拳で、

各地の子どもらの間に広まった。

かつては、掛声などに地方色がみられたが、

いまはジャンケンポンと画一化された。

とはいえ、この日本独得の遊び、子ども遊びがある限り、

ほろびることなく伝えられていくことであろう。

歴史の中の子供たち いくさごっこ

歴史の中の子供たち いくさごっこ

 

『風俗画報』から

 鎮守の境内で、子どちらが二手に分れて擬戦に興している。

旭日旗を手にした日本車が清国軍を撃ちまかして、

「敵兵」を捕虜にしたというのである。

流行の軍服を着た子もいる。

 子どもの遊びには、時代の動きを反映して流行するものも少なくないといわれる。

軍歌をうたい、軍人に扮装して行進を真似したり、

旗章を掲げ、竹枝などを銃に擬して闘ったりする

「軍(いくさ)ごっこ」が、さかんに行われるようになったのは、

日清戦争以降のことで、この遊び、

京国強兵のかけ声のなかで勇壮な遊びとしてもてはやされたが、

子どもたちの心のなかには、

このような遊びを通して知らず知らずのうちに、

「敵国兵」に対する蔑視感が育てられ、

他国を侵略すらことに疑問を感じない気持が培われていったのである。

 いま、侵略を「進出」に改ざんさせる歴史の歪曲が押し進められているが、

 かつて子どもらの間に流行した遊びをみても、

ひきおこされた戦争の真実をおおいかくすことはできまい。