【柳沢兵部丞信俊(吉保の祖父)『寛政重修諸家譜』
【柳沢兵部丞信俊(吉保の祖父)『寛政重修諸家譜』
(この項は正規の歴史書には見えない記載も含まれている)
天正十年勝頼没落ののち、武川の諸士と同じく東照宮の御麾下に属し忠節を励ます。このころ北条氏勅使を遣わし、武川の士を味方に招こうとした時、信俊、米倉主計助忠継・折井市左衛門次昌らに力を合せ、氏直が使を討ちとってこれを献じ、また氏直に属せし小沼の小屋を攻破る。
この年甲斐国新府に渡御あった時にはじめて(徳川家康)に拝謁する。このころ北条勢逸見日野村の花水坂に屯して、しばしば武川衆を襲う。信俊、山高宮内少輔信直と謀り、三吹の台に伏兵を設けてこれを追崩し、首二級を討取り、家臣も敵一人を生け捕り新府の御陣に献じたところ、功ありし家臣に青銅三貫文を賜う。
慶長元年、朝鮮の役に兵船を作る際に、伊豆山より良材伐出する事をうけたまはる。
|
信俊の事績の詳細が読みとれるであろう。
【柳沢兵部丞信俊(吉保の祖父)甲斐柳沢から武州鉢形領へ】
信俊が武川諸士とともに祖先伝来の名田の地、柳沢村に別れをつげて武州鉢形領に移った時、知行として宛行われたのは今市郷の内、二一石七斗二升であった。これは、信俊がさきに本領甲州柳沢村において安堵された七二貫八〇〇文に見合う知行高とみられるが、一貫文が約一石五斗三升四合強に当たる。これはいわゆる堪忍分で、家康が多年恩恵を施してきた甲州から、北条氏の将領関東へ移され、財政的に苦境に立っている。当分これで堪忍せよとの意のもとに宛行われたものである。その後、慶長九年三月に一二〇石を加増され、ここに二三一石七斗二升となった。前記の信俊の譜によれば、天正十八年のころ二三〇石を与えられたように記しているが、慶長九年三月の加増は、折井次忠以下一四人の武川衆に対し、一律に行われたものである。
武川衆御重恩の寛
曽根孫作 五拾六石田斗弐升
曾雌民部丞定政 八拾六石
折井九郎三郎次吉 六拾石
折井長次郎次正 九拾石
曽雌新蔵定清 百拾石
有泉忠蔵政信 五拾石
山高宮内少輔信直 七拾五石
青木清左南門尉信政 弐拾石
馬場右衛門信光 百石
折井市左衛門尉次忠 弐百石
合計 千弐百拾壱石弐斗弐升
右の分、今度加増として右の衆へ下され候儀、御前におゐて我等ども承り候て、かくの如くこれを書き定め候
折井市左南門尉殿まいる
|
家康はこの前年、すなわち憂長八年の二月十二日に征夷大将軍に補せられ、幕府を開いたのであるが、その翌年三月に武川衆に加増の沙汰をしたのは、武川衆諸士が壬午以来、互いに和衷協力、至誠奉公を一貫し、家康子飼いの三河武士に劣らないほどの武勲を立てたことに対する恩賞とみてよいのではないか。
この覚書の連署奉行は、大久保石見守長安と成瀬小吉正一とで、いずれも家康の信任厚い人たちである。宛名人の折井市左衛門尉は先代市左衛門尉次昌の嫡男、次忠である。通称九郎次郎、九郎三郎次吉の同母の兄である。
信俊の妻は石原四郎右衛門尉昌明の女である。昌明は武田家の重臣であったが、壬午の年家康に仕え、民政に長じたので天正・慶長両度にわたり徳川家四奉行に列して活躍した。信俊の二児安吾・安息は石原氏の所生である。