甲斐の黒駒(神話の時代)

甲斐の黒駒(神話の時代)
 甲斐の駒はその始め「甲斐の黒駒」と呼ばれ、中央に於いても特に有名でそれを示す資料もある。『日本書紀』の雄略天皇十三年(四六九)の項に
罪に問われた猪名部真根が処刑される寸前に赦免の勅
命が下り死者が駿馬に乗り駆けつけ、あやうく命を救わ
れた。
との記載があり、その駿馬こそ「甲斐の黒駒」であったのである。
ぬば玉の甲斐の黒駒鞍きせば命しまなし甲斐の黒駒
古記が正しければ、雄略天皇13年(469)に既に甲斐の黒駒の知名度は中央に於いて高かったことは、5世紀前半頃から他国を圧倒して甲斐に優秀な駒が産出されていたことを物語るものである。こうした歴史がやがて「甲斐の御牧」に受け継がれて行く事なる。
雄略天皇九年(四六五)には河内国において換馬の伝説として「赤駿(あかこま)の騎れる者に逢う云々」とあり、この時代に既に乗馬の習慣があったことが理解できる。
駒(馬)のことは神話にも登場していて『古事記』に須佐之男(スサノウノミコト)天照大御神(アマテラスオオミカミ)に対して「天の斑駒(ふちこま)を逆剥ぎに剥ぎて云々」とあるが、『魏志倭人伝』には
その地(倭)には牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない
とあり、馬種については信濃国望月の大伴神社注進状に 須佐之男命が龍馬に乗り諸国を巡行して信濃国に到り、蒼生の往々住むべき処をご覧になって、これを経営し給いて乗り給える駒を遺置きて天下の駒の種とする云々
と見える。また牛馬は生け贄として神前に捧げるられる習
慣もあった。月夜見尊は馬関係者の神として祀られていて
主人に対して殉死の習慣もあり、後に埴馬として墳墓に供
えられた。人が馬に乗る習慣は『古事記』に大国主命が手
を鞍にかけ足を鐙にかけたとの記述が見え、『日本馬政史』
には『筑後風土記』を引いて「天津神の時既に馬に乗りた
ることありにしや」とある。
  山梨県内各地の古墳遺跡から埴馬や馬具などの副葬物が出土されている。古墳中には高価な副葬品も発見されているが、有数な古墳のほとんどが盗掘にあっている。また破壊され畑や宅地になってしまった古墳も数知れない。
古墳に祀られていた人物については史料がなく判明しない状況であるが、古墳の副葬品からは、乗馬の習慣があったことが理解できる。東八代郡中道町下曽根字石清水のかんかん塚(前期円墳)からは本県最古の馬具轡(くつわ)・鐙(あぶみ)が出土している。また山梨県最古の古墳東八代郡富村大鳥居の王塚古墳(前方後円墳)からは馬形埴輪が出土している。また『甲斐国志』には米倉山の土居原の塚から異常なる馬具を得たとある。
甲府市地塚町三丁目の加牟那塚古墳(円墳)からは馬形埴輪が出土している。甲斐の三御牧があったとされる峡北(韮崎市北杜市)地方の古墳は少なく、従って馬具などの出土も少ない。五世紀に於いては北巨摩地方より、古墳が築かれた甲府盆地を中心とした周囲の丘陵地を含む地域周辺に於いて牧場があり飼育されていたと考えるのが妥当である。