柳沢吉保、川越藩主となり、老中格、大老となる。元禄七年

柳沢吉保川越藩主となり、老中格大老となる。元禄七年
 元禄五年十一月、吉保は摂・河・泉三国と武蔵の内で三万石加増され、
元禄七年正月七日さらに一万石加増があって、合計七万二、〇三〇石となり、武蔵川越の藩主を命ぜられた。
元禄年十二月老中格に昇進した。
吉保の譜に「老職に准ぜらる」とあるのはこのことである。
 元禄九年八月、荻生徂徠を儒臣として召抱えた。徂徠は号で詩は茂卿、通称惣右衛門、別号を蘐園といった。本姓物部氏ゆえ漢学者流に物茂卿といい、蘐園学派の祖となった。譜に、
 
  儒学をもつて松平羊濃守吉保につかえ、のち常憲院殿吉保が邸に渡御の時拝
  謁を許され、御前に召されて経義を講諭し、のちしばしば登営して局易を講
  じさせたまうを拝聴し、御手づから御印寵を賜う。
 
 とある。徂徠は、少年の頃父が冤罪により上総に追放され、二十五歳のとき赦免されるまで、極貧の中で豆腐の粕で生命をつなぎ、苦学研鑽した。その学問は空論を拝して実用経済を重んじたので、時弊を匡救するものとして諸侯は争って召抱えようとしたが、自ら持することの高い徂徠は容易に仕えなかった。しかし吉保の情理をつくした召特に接すると、その知遇に感じて快く出仕したのであった。
 元禄十年七月、武蔵、和泉両国のうちで二万石の加増があり、九万二、〇三〇石の高となった。
 元禄年十一月十四日、綱吉が吉保邸に臨んで諸奉行の訴訟裁断を監し、また自ち論語を講じた。この日、吉保の儒臣荻生徂徠細井広沢をはじめとする五人も陪席して聴講し、のち綱吉の指名により疑義を質問させたという。
 元禄十一年七月、吉保は東叡山寛永寺の根本中堂造営の総奉行を勤めて首尾よく竣工したので、その功を質されて左近衛権少将に任ぜられ、席次は老中の上位に置かれることになった。これは老中の上位というので、
大老格と呼ばれたが、その権力は大老そのものと変わらなかった。
 元禄十四年十一月二十六日、柳沢邸に臨んだ綱吉は、これまで出羽守保明と名のっていた吉保を自身の座側に招き、「父安息の存命中より一意専心奉仕し、多年表裏なき実直な勤務は万端わが意にかない、満足この上ない。よって動仕の着たちの模範として、今後は親族の待遇とする」といって、松平の姓、綱吉は吉の一字を与えて吉保とし、出羽守を美濃守に改めさせた。
同時に吉保の楠男越前守安貞にも松平伊勢守吉里と名のらせた。
【生類憐みの令】 
元禄十五年三月、大和国の内において二万石を加増され、一一万二、〇三〇石の高となった。
 綱吉は、元来は好学で孔主の敦えを政治に実現するを期したので、初政は善政を喜ばれたが、実子を望むあまり迷信に陥り、側用人牧野成貞に命じて「生類燐み令」を公布させたが効なく、吉保の建策によって亡兄綱重の子、甲府中納言網豊を養嗣子とすることを決意し、その実行を吉保に託した。吉保は綱吉の意を体して御三家その他との交渉を円満に進め、徳川綱豊を将軍世子とすることに成功した。