柳沢吉保、甲斐領主に
柳沢吉保、甲斐領主に
宝永二年一月二十一日吉保を召した綱吉は、
書宗年頃の勤労、言のつくすべきにあらず。このたびの典礼どもも、去年以来一人にて議定し、内外一事として疎漏なし、我邦の副弐(将軍世子)を定め、国の基本をかたむること、吉保一人が功というべし。さればその功労に報いんため、甲斐の府城を賜わるべし。甲府は中納言殿の御領といひ、其上人臣の封地とすべき地にあらざれど、吉保が事、一家と同じく思召、且つ祖先の地たるをもて給ほる由宣ひて御手書を給い、又長子伊勢守書里を召して、汝よく父に命ぜられし御詞を奉り、子々孫々万世に至るまで忠勤怠らず、永く封地をつたふべしと面命せらる。
(『常憲院殿御実紀』抄記)
と記されているように、吉保の功績に対する最高級の褒詞を与え、ついで次に示す甲斐国山梨・八代・巨摩三郡充行朱印状を与えた。
(徳川綱吉)
宝永二年四月廿九日 (朱印)
甲斐少将殿 (原漢文)
別紙の目録とは次のものである。
山梨郡一円 百四拾六箇村
高 六万八千拾四石一斗一升六合
八代郡一円 百七拾九箇村
高 五万九千五百三拾二石四斗五升四合五勺.
巨摩郡一円 三百三拾六箇村
高 拾万千二百拾九石二斗九升五合
都合 拾五万千二百拾九石二斗九升五合
外ニ二七万七千四百七拾七石壱斗二升八合四勺 内高
右、今度郡村の帳面相改め、高間に及ぶのところ、御朱印を成し下され候なり。
仍つて件の如し。
(徳川綱吉)
宝永二年四月二十九日 (朱印)
本多伯者守正永
稲葉丹後守正通
秋元但馬守喬朝
小笠原佐渡守長重
土星相模守政直
松平美濃守殿
この朱印状の原案に、「政務勤労」とあったのを歯がゆく思った綱吉が、筆を入れて「真忠之勤」と訂正したのである。
感動した吉保は、次の和歌を詠じた。
めぐみある君に仕へし甲斐ありて
雪のふる道今ぞふみみん