◇柳沢吉保、側用人・若年寄・大名となる。貞享四年 父安忠没

柳沢吉保側用人若年寄・大名となる。貞享四年 父安忠没
貞享四年九月十七日、父安忠が没した。綱吉は上使を遣わし、香莫三〇〇両を霊前に供えさせた。元禄元年十一月、
庶事の掛(側用人)を命ぜられ、席を若年寄上座とされた。
庶事の掛とは側用人のことで、側衆(将軍の側近)の啓達を監督し、老中・若年寄の伺候を将軍に取り次ぎ、評定所にも列し、譜代大名をもって任じた。それで側用人といわれる。格式は老中に准じ、その威望は老中を凌いだ。
綱吉の創置である。
 吉宗は側用人任命と同時に和泉・武蔵・上総の内で一万石を加増され、大名になった。
 元禄二年三月、和泉・上総の内で二万石加増、合わせて三万二、〇三〇石となった。
 元禄四年三月二十二日、綱吉ははじめて吉保の邸に臨んだ。将軍が家臣の邸に臨むというのは格別のことである。綱吉はこの時吉保に白銀三〇〇枚・酒肴二荷・鞍置馬一疋、伯耆安綱の刀を与えた。吉保もまた来国光の刀、茶壷などを綱吉に献じた。この日、席を改めて綱吉自身が大学を講じ、吉保をはじめ陪席の大学頭林信篤、ならびに将軍家随従の諸大名、吉保の家族、また吉保召抱えの儒臣七人が聴聞した。ついで吉保が同じく大学を講じ、林大学頭、吉保の儒臣七人も続いて講じた。
 この日を第一回として、綱吉は以後宝永五年までに、五八回にわたり吉保邸に臨んだ。
 綱吉は、文武両全を期し、片手落ちにならぬように努めた。
元禄六年十二月三日に吉保邸へ臨んだ時は、吉保の家臣柳生勝興の剣術を試みた上、綱吉自身が勝興の相手になって見事な勝負を試み、並居るもの手に汗を握った。