【『楽只堂年録』にみる柳沢吉保像 誤解されている吉保】

『楽只堂年録』にみる柳沢吉保像 誤解されている吉保】
柳沢美濃守吉保の生涯 出生柳沢氏の発祥 柳沢吉保の系譜(『武川村誌』一部加筆)
 吉保が、常に修養に努めたことは、その例に乏しくないが、ここに彼の伝記ともいうべき『楽只堂年録』 の一、二節を引用してみょう。
 
昔、孔子の門人に子游という者あり。魯の武城の宰となりし時、孔子、能き人を得ぬるかと尋ね給いければ、台滅明という者候、路を行くに必ず本道よりして、近道を行かず、公用に非ざれば、ついにそれがしが家に来らず候とて、是をもって能き人と定めしなり。古人の風儀大方かくの如くに候、是れ式の事にて候えども、此の両事にて減明が心ざしざま正しく、大様にして、身の便を求めず、才を専らとせず、己れが心を柾げて人に諂(へつ)わぬところ、顕われ候。今時、かようの者の候は純なる行為のように申すべく候、又人の頭として、其の下の者、我が方へ公用の外に付届けこれなく候わば、不快に思うべきところ、流石孔門の学者とて、走れを以て称美するにて、子游が大様なる心の程も知られ候、此くの如くにてこそ、下の賛否も明白に知れ申す筈に候、それがし論語を読み候て、此所に至り候て、大方感涙を押さえ候、それがしが家臣たる者は、家老、頭分は子游を鏡に致し、諸士は滅明を模範に致すべく侯。
 今度異見の趣き、一々左に書き著わし、各々に申し開かせ候故に、自今以後それがしも、各々と互いに善に進み悪を改め、各々は古の忠臣義士にも恥じず、それがしも名君賢主の跡を慕い、後代までも君臣ともに令きためしにひかれ候ようにと、真実に存じ入り候、各々もそれがしの此の心底を能く能く推察いたされ、常々意見を加えられ、諸事差引を頼み申し候ほか、他無く候、勿論各々も其の心得肝要に候、然れども、古の聖賢の君さえ群臣の諌言を求め給う。況やそれがし如きの者、先祖の積善により君の位に登り、各々の上に居るといえども、生質不肖にして君たる道に違い、各々の心に背かん事を恐れ入り存じ候、其の身の行ない、領国の主に違い、国政諸事大小によらず、し少しもよろしからぬ義、又は存じ寄りたる義は、遠慮なく其のまま申し聞けべく供、其のうち国政はかりそめにも民心にかかわり候えば、小事も大切なる義に候間、各々の差図を承る筈に候、各々も遠慮あるべき義にもあらず候、但し身の上の義、右の通り申し渡し候ても、其の気に障り申すべく候と、執計らい申され候義もこれ有るべしと、心もとなく候、又は生質不肖に候間、かように申し候ても吾が身の悪しき事を強く諌められ候わば、不快の顔色見え申す義もこれあるべく候間、重ねていましめ申され候ように致しなし申すべきや、其の段は随分嗜み申すべく候、万一其の味見え候とも、始終の心底は弓矢神の誓いをもって只今申す通りに候、すべて其の心底内外の 義につき、己が悪き事は人に隠し申す義はこれなく候間、見及び聞及び申さるるところ、何事によらず機嫌を見はからず、諌言を頼み申し候、たとい其の事たしかならず候とも、虚実は構わず候。游興を好み候か、女色に耽り候か、奥方驕りにこれ有り候か、己が威勢を募り候か。賞罰正しからず候か、賢臣を遠ざけ、使臣を近づけ候か、文道に疎く候か、武備を忘れ候か、臣下百姓に至るまで憐愍これなく候か、作事を好みて人力を破り候か、器物を翫び候か、金銀を費し候か、斯様の義は自分存じ寄りの分に候、此の外にも思い寄られ候事これ有り候わば、対面の節、直きになりとも、又は書付けにてなりとも差し越さるべく候、秘し申し度き事に侯わば、封じ候て尤も宜しく申すべく候、取付けの者少しも延引候わば、不届きたるべく候、勿論一覧の義に及ばず、其の優にこれ有るべく候
 
 
 以上の二例、長文をいとわずに引用したのは、これらの内容によって、吉保という人物がいかに大名ぶらず、真理の前には謙虚な修行者の一人として、君臣の隔てなく同じ土俵において切磋琢磨し合い、もって人間味の溢れる藩風の育成に努めたことを紹介したのである。
 これまで、吉保に対する史家の人物評価は、酷に過ぎた。それは、彼の余りに速い栄達に対する政敵の妖妬に基づく中傷が主軸をなし、吉保は、天成の好学の士であったが、館林侯綱吉の学問の弟子を命ぜられると、水魚の交りというか、両人の学問上の接触はきわめて円満で、吉保の学業は目に見えて上達した。
 綱吉は、自身の眼識に狂いのなかったことに満足し、天和二年正月一日の読書始めの式に、吉保に指名して『大学』を読ませ、三綱領に至った。これは予告もない突然の指名であったにもかかわらず、吉保の坐作進退はよく礼に適い、悠揚迫らず終始し、綱吉はじめ陪聴の面々は、ことごとく感歎の声をもらした。綱吉は、この上なく満足して、以後は年々の読書始めには吉保が奉仕するのが例となった。
 江戸幕府が、政治の理念を大学の三綱領に求め、綱吉の暦学心がこれを推進し、元禄文運の興隆を致したことは、政治家として評価すべきであり、これを補佐した吉保の功績も軽視できない。
元禄元年(一六八八)六月三日、綱吉は次に示すように、過則勿憚改の聖語を大書し、これに宋の大儒程明道の語を添え書きして吉保に賜わった。
 
過ちてはすなわち改むるに憚ることなかれ、程子いわく、学問の道は他なし、その不善を知らば、すなわちすみやかに改め、もつて善に従うのみなり。右は聖言なり、これを書きて出羽守源保明にたまい、もつて教戒を示す。慎みてこれを守るべし。
        内府綱吉(もと漢文)
 
時に綱吉四十三歳、吉保三十一歳であった。