柳沢吉保の修養 徳川綱吉との関係

柳沢吉保の修養 徳川綱吉との関係
柳沢美濃守吉保の生涯 出生柳沢氏の発祥 柳沢吉保の系譜(『武川村誌』一部加筆)
 
吉保は万治元戊成年の生まれで、綱吉は正保三丙戌年の生まれ。一二歳離れるがともに戌年生である。相性が合ったというのであろう。綱吉の学問は大名芸の域を出でないが、歴代の将軍中でも、好学の点では綱吉の右に出る者はなかったようで、幕政は文治主義に転換していた。
延宝八年、綱吉が将軍職に就任すると、同年十一月三日、吉保は小納戸役になった。この役は若年寄支配で、将軍身辺の雑務を担当する。髪月代・膳番・庭方・馬方・鷹方・筒方などに分れ、奥小姓同様、重要な役であった。
 吉保の誠実な奉公ぶりは綱吉の期待に沿い、満足した綱吉は、翌る天和元年四月、吉保を布衣の列に抜擢し、三〇〇石を加増して八三〇石とした。その上で同年六月三日、吉保に学問の弟子となることを許した。時に吉保二十四歳。同月二十三日、綱吉は自筆の曽子像に、「十日所視、十手所指、其厳也」と讃を着けて、内府綱吉筆と落款し、吉保に賜わった。
綱吉は、翌天和二年一月十一日の書初め
 
   主 忠 信
 人はただ まことの文字を 忘れねば
    いく千代までも さかゆなりけり
 
と書いて吉保に賜わった。吉保はこれに深く感激し、その実践に努めたのはもちろん、嫡男吉里はもとより子女に懇諭し、また家臣らに対しては主忠信の精神に服して主君を忠諌し、ゆめにも阿諛の言動のないよう戒めた。
 吉保が、綱吉の忠実な側近の臣であったと同時に、その儒学の門人であったことは、たとい綱吉の学問がそれほど深遠なものでなかったにせよ、好学の主君が折に触れて賜わる筬言は、吉保を啓発するところが大きかった。
 綱吉は、ついで元禄元年六月、過則勿憚改(過ちては、すなわち改むるに憚ること勿れ)の五字を書いて吉保に賜わった。謹直な吉保は、これを拳々服贋(月)し、師であり、主君である綱吉の恩誼に報いようとつとめたのであった。