武川町、国指定文化財 天然記念物 萬休院の舞鶴の松

武川町、国指定文化財 天然記念物 萬休院の舞鶴の松
(昭和九年一月二十二日指定 枯れ死、現在三世)
 万休院の境内入口附近に存在するアカマツで、その全貌は植物編に載っているので、ここでは伝説やこれに関連した歌などを記載する。
 寺記によると、往昔、行基菩薩が小庵を営んだのはここにあった老松樹の下であったが、正応三年(一二九〇)火災で堂宇焼失を見たが、その際焼けたというのである。そこでそのままにするのを惜しんで山中から一樹を移植したのが今日の松といわれている。
 下って天文九年(一五四〇)大風があって、ために主幹が折損して風致を害したので、時の寺僧が枝をたわめ、横にして主幹に代えたと寺記にある。以後馬場信房公もしばしばこの地に立ち寄り、観音堂庭前の老松を愛されていた。元亀二年(一五七一)当山開基となった馬場信房公の力によって壮麗なる大伽藍が完成したとき、住僧松道が山号を請うたところ、公は松に因して「長松」を以って山号と為すべしと云われ、開山玄益大和尚寺号を「萬休」と撰定し共に苦して楯間に掲げさせたという。
 「法語に曰く休罷萬機」と師はこの意義をいわれた。これが長松山寓休院の名因にして生ずるところである。
 開山玄益大和尚は、長坂上条竜岸寺六世の住僧として偉業を遺されたが、その中興開基は、真田幸隆の四男信尹であって、夫人は信房公の息女である。当院開山として招かれたのは、学徳高きを慕われた開基信房公の要請によるものである。
このように山号を「長松山」と称するなど萬休院開創時元亀二年(一五七一)にはそびえていたものであったにちがいない。寺記「風致勝景」の欄に
 庭前の老松は二代の松とされ寛永十五年に堂宇と共に回禄の災に躍り二代鷹頓和尚その旧記の控滅に付するを惜しみ一樹を移植し今に現存するものすなわちこれなりと四面を繘(めぐ)らすに畠を以てす寂莫として俗塵なり蒼々の色は人目を娯ましめ諷々の声は人耳を楽しましむ。その風光掬すべくその景致愛すべし実に別天地のごときなり、春夏をいとわず文人墨客の杖を叩くもの多し
 と書かれている。
 江戸時代寛永以降は明らかである。推定年代は約四〇〇年と考えられる点からして、また山号を長松山と称するなど老松だけに人の口の端にのぼりやすく、詩歌にも詠まれやすかった。延享二年(一七四五)秋吟詠の桐板額面に墨跡鮮麗に左の一首がある。
  末遠く登れば長き松山に 越ゆるも安きぼんのうの浪
 また元治元年(一八六四)三吹の俳人小野松渓は現在の国道二十号線から新屋数人口に碑を建立した。
  「長松山寓休院ノ境内二年古ル松樹アリ是ヨリ三丁
    見る人に見せばや松の深みどり」
 作者は見る人として、松を見る目のある者に見せてもその良さがある松であると、みどりしたたる勢のほどを詩っている。
 なお萬休院寺境八勝の内にも
   庭前老松
  千代かけて契や置くあし田鶴の なれて訪来る庭の老松
 国、県、地方としてまことに得難い老松であるが、近年松食い虫の害に遭って、かつては金網で松を包んで雀を中に放って虫を食べさせる方法を用いたが効果は芳しからず、今日、殺虫剤で松食虫にいどんでいる。
 老松舞鶴松は萬休院の象徴であるため、この保存手入れには、住職をはじめ檀家の人々は特に神経をつかっている。雪の日には竹ざをを持っていき雪落としをしている。寺院関係者はもちろん、国、県、村を挙げて、永遠の長久を祈る念切なるものがある。上下三吹、新開地老松会(老人クラブ)の人たちによる手入奉仕作業は毎年続けられ、現在は再び松の線が鮮やかとなり、観光バス、マイカーによる見物客は日毎に増している。