武川町の文人、石原嵩山(武川村誌 昭和61年)

武川町文人、石原嵩山武川村誌 昭和61年)
「甲斐俳家人名録」慶応三年(一八六七)七月発行
石原嵩山
 嵩山は寛政八丙辰年(一七九六)七月二十八日、山高村石原守敬の長男として生まれた。童名大治郎、善右衛門、太郎左衛門、善之進といい後に民部左衛門と改めた。
 諱は守政、八森館常山と号した。
明治四年七十八歳の時四月七日石原徳翁と改めている。このころ天然痘が流行したため種痘をすることによって、はば完全に防げることがわかり、本県で初めて種痘が施行されたのが明治五年である。この時布達によって種痘世話役を勤める他、巨摩郡第二十区副戸長を仰せ付けられるなど、明治新政府の発足と共にその手腕を発揮した。
一方、漢学を市川の座光寺南屏に学び、特に音韻学に精し、詩文、俳諧を能くした。山高の幸燈官拝殿には、天保年間、万延元年、慶応元年と発つかの献吟額が奉納されている。これ等は嵩山が撰者である他、自らが書いている。書道に長じ特に好んで古篆を著した。
慶応三年(一八六七)七月発行の「甲斐俳家人名録」によると次の句が出ている。
   春はとて我に一つのはなのくせ
   十五夜に前尋ねゆく花の出来
   今妻にあふかもあらしのなりやみぬ
   雪に鳴くすずめ寒いか嬉しいか
    神代桜 常山 石原守政
化城の勝景、春、高く聞こゆ、老樹、花開けば、白雲の如し、
道説( いうならく)、斯の桜、天下一と、曷那 ( さもあらばあれ )、□(宀眉)客、累りに群を成すは。
    桜の四季 八森館守政
古寺の大木の桜の花は雲とうたがひ
雪ともまがふ
夏は青葉の猶うちしげり 
木かげ涼しく暑さ忘れつ
   秋はとりわけさくらの紅葉
        誰か織りなせる錦とも見む、
   冬は雪もつ枝の粧ひ
        華を欺くこしきとぞ見る。
 
 石原嵩山は実に鳳風山下の碩学で、名声高く、俳諧の撰者としても、鳳来村(白州町)の塚原甫秋、幾秋と共に活躍した。
 門菓には桜井義令、中山正俊、清水有文等有名人を輩出させている。
 嵩山は和歌、俳句、漢詩とあまたの大作をのこして明治十五年二月九日、山高の自宅において八十六歳の生涯を閉じた。
  石原院寿山徳翁居士、山高の高龍寺に墓がある。
     父守敬の辞世
  「はととぎす今ぞきえゆく 西の空」
    嵩山(守政)の辞世
  「十年浮世夢 即今忍覚去黄泉」