江戸時代の俳諧 芭蕉・素堂 総括(武川村誌 昭和61年)

江戸時代の俳諧 総括(武川村誌 昭和61年) 
 俳諧が風雅のまことを責める文芸として、真の文芸性を持つようになったのは、俳聖松尾芭蕉の出現によるといわれている。
 芭蕉の甲斐との関係は、天和二年(一六八二)十二月に深川の芭蕉庵を焼かれてから郡内に一時難をさけたのに始まる。
 その後は天和三年夏の半まで郡内にいて江戸に帰ったが、その後、貞享二年(一六八五)四月「野ざらし紀行」の旅の帰途、木曽から塩尻峠を越えて諏訪に出て、甲府盆地を通って大月から谷村に立ち寄り、江戸に帰っていると推定される。そのおりの資料として、芭蕉から空水宛の書簡の中に次の句が吟じられた。
  行駒の麦に慰むやどり哉
 が残っている。その後は芭蕉を尊ぶ精神がわき起こるとともに、甲斐の各地に句碑が建てられる理由となっている。
《山口素堂》
 また、県内有名俳人としては山口素堂がいる。鳳来村山口の人で寛永十九年に生まれ、幼名重五郎通称を市左衛門といい、諱は信章、字は子晋・素堂と号した。江戸に出て林春斎の門に入り漢学を学び、京都に出て北村季吟に師事し国学を究め、書を持明院家に、和歌を清水谷家に、連歌は季吟に、茶を今日庵宗丹に学び、風流の道一つも通じないものがないほど万能の人であった。素堂の有名な句に次のものがある。
  目には青葉山はととぎす初かつを
 また甲州にゆかりのある句としては
  ほそ落の柿の音きく深山かな
  酒折の新治の菊と歌はばや
 素堂は甲府代官桜井政能に招聴されその属僚になり、濁川水路を開いた後江戸に出て、東叡山下に寓し、専ら儒を以って立ち諸藩に講学して詩歌を教えた。いったん世外の念を発し家を葛飾阿部なる芭蕉魔の隣に移し、正風体の俳譜を世に行おうとして名を素堂と改めて其日庵一世となり、いわゆる蔦飾風の一派を創めた人である。このように有名人の輩出によって県内俳道にも大きく影響するところがあり、各地の俳諧の状況は町人や、武士などの間には行われていたと思われるが、農村地域である峡北武川地方は浸透が遅かった。
 貞享二年(一六八五)発刊の「俳詣白根嶽」には武川方面の人たちは見えていない。しかし江戸末期になると盛んになったことが窺える。