武川町柳沢、餓鬼嗌(がきののど)を詠った漢詩

武川町柳沢、餓鬼嗌(がきののど)を詠った漢詩 
峡中詞藻詩賦篇(昭和三年九月廿日発行、原漢文)
 
  物 茂卿(荻生徂徠
陋俗、漫りに伝う、餓鬼嗌を、元来、天女の琵琶台ならん
渓声、長広舌は猶在り、誰か識る、妙音は是れ弁才なるを。
 
  田 雪翁(田中省吾)
当時の喪乱、情を傷ましむ可し、餓鬼の嗌中に、弁纓を蔵す、
尺蠖、屈し来りて、自在に伸ぶ、石床、咫尺、雄城を作す。
 
武川町の歴史 餓鬼の嗌(のど)栁澤信俊(吉保の叔父)が武田滅亡時に隠匿した場所                        
 柳沢の古跡として西山の下にある。柳沢兵部が戦を避けたところであると伝えられている。場所は柳沢から石空川を右にして西南に一里ばかり行くと、川の東に星山の墟が見え、西南に六・七町行くと山葵沢に到着する。飛瀑があってここで沢を捗り急に険しくなり、右に港布を見ながら、樹木が交越して全体を露わさないほどの山中である。
 また、四町ばかりやや平坦の所に出て、草の中を数十歩行くと、突起した方六、七尺の大きな石があり、その石の下は居住できるような場所であると伝えられている。
 宝永三年九月、柳沢吉保の命を受けて荻生惣右衛門徂徠と僚友の田中省吾が甲斐に遣わされた時、武川の柳沢一帯の旧跡を訪ねた。九月十三日、村民の最も困難で、危険の場所として止めたのにもかかわらず、餓鬼の嗌に登ったのである。険崖をおかし、あらゆる困苦を排しながら、漸く絶頂に達したけれど、遂に塁所を極めることができないで山を下り、柳沢寺の旧跡を見ている。帰りは途中で疲れない様に従った人たちの配慮によって馬をやとってもらい、これに乗って、月が東山の上に出て二更に及ぶ頃甲府に帰り宿で、険しい山を登ったにもかかわらず、旅窓に月の光を入れて詩作をしたといわれている。これがすなわち、「風流使者記」として記されて有名になった「餓鬼の嗌」である。
 「甲斐叢記」に次のように記されている。
 餓鬼嗌、澗流に臨たる峻き峰の上にあり山の盤曲たる中間に少しく平なる処三四十間許に十問余りの濶(ひろ)さなり後の方は崇にて前は偉く入口窄くして奥は寛し、地獄変相の中に画たる肚太く嗌頸細き餓鬼という者に似たればとて如此なづけ目(なづけ)しとなん(此名処々にあれども此処は徂翁が遊びし処にて其記文さえ伝りければ特に世に名高く聞えたるなり)其右の方に衝と立たる岩あり下に嵌(あな)空ありて洞の如く数人の坐を設くべき程間の潤  さ僅に五六尺許沙石ざらざらとして足を踏留むべき所なし、実に無双の要害なれば天正壬午の年柳沢兵部丞兵乱を此処に避られしなり。又連接たる処に逸見氏、一条氏等の同じく潜み匿れし塁地あり、古老の話に本州は山河天然の固 あれば古よりして敵国に侵し掠らるゝ憂なかりしに、天正十年織田勢乱入せしかば泰山忽ち崩れ江河の暴に在る如く州民東西に分散て山小屋に入るというは是事にて小屋場など云処諸所の山中に往々あり、国中の武士も妻子足弱をば  皆山中に蔭し置たることなれば此処も其類なるべし。
 以上のごとく記されているが、なかなかこの場所を極めるには困難のようである。