2013-06-21から1日間の記事一覧

山梨県○昭和三十四年の台風七号・十五号災害

○昭和三十四年の台風七号・十五号災害 (参考『若草町誌』一部加筆) 昭和三十四年八月十四日の七号台風と、九月二十六日~二十七日の十五号台風(いわゆる伊勢湾台風)は、本県にとっては明治四十年災害以来の大きな災厄をもたらした。 八月十四日午前六時半…

山梨県 カスリーン台風

カスリーン台風 (参考『若草町誌』一部加筆) 昭和二十二年九月には、カスリーン台風が来襲した。十三日から十五日にかけて五〇ミリの豪雨があり、岳麓地方、笛吹川筋を中心に大きな被害があり、浅原橋を始め桃林橋、浅利橋、富士橋、飯富橋などの大橋はす…

山梨県 昭和時代の水害

昭和時代の水害 (参考『若草町誌』一部加筆) 昭和九年(一九三四) 九月室戸台風。全国的に空前の大被害。本県死者一三人。 昭和九年九月二十一日に室戸台風が来襲し、全国で死者行方不明三、〇三六人、家屋の全壊・流失など四、二九八戸にのぼる大きな被害…

山梨県 大正時代の水害

大正時代の水害 (参考『若草町誌』一部加筆) 大正三年(一九一四) 八月台風。浅原橋流失。交通途絶。 大正一二年(一九二三) 九月豪雨。関東大震災で堤防亀裂し被害を大きくした。

明治四十二年の山梨県の水害 戸栗孝(のち鏡中条村長)体験記

明治四十二年の山梨県の水害 戸栗孝(のち鏡中条村長)体験記 (参考『若草町誌』一部加筆) この水害について、当時十七歳の少年だった戸栗孝(のち鏡中条村長)は自らの生々しい体験を次のように記している。 明治四十年 八月二十五日払暁前日来依リ豪雨降リ続…

山梨県 明治四十四年三月十一日、

明治四十四年三月十一日、 山梨県下の皇室御料地二九万八千二百余町歩が恩賜県有財産として下賜 (参考『若草町誌』一部加筆) 明治四十年、四十一年、四十三年と連続する大災害で疲弊困窮の極に陥った山梨県は、県民大会を開くなどして政府にも治山治水策を…

山梨県 明治四十二年の大水害

明治四十二年の大水害 (参考『若草町誌』一部加筆) 明治四十二年の八月十日、またもや台風が県下を襲った。四十一年の大災害からようやく立ち直り、笛吹・釜無の両河川をはじめとする治水工事も進められ、被災者は窮乏の中から再起しようと必死に努力して…

山梨県 明治四十年の大水害

明治四十年の大水害 (参考『若草町誌』一部加筆) 明治四十年の大水害は、本県災害史上に残る大災害をもたらし、今日なお古老の口から、また言い伝えにより、その悲惨さが語りつがれている。 この年八月二十二日の夜半から降り出した雨は「雨勢滝の如く雨脚…

山梨県の水害史 明治年間(元年~44年)

山梨県の水害史 明治年間(元年~44年) 明治元年から四十四年までの間に、十八回に及ぶ水害の記録が残っている。なかでも四十年と、四十三年の水害は未曽有のものであった。(『山梨県政六十年誌』) 明治一年(一八六八) 釜無、御勅使川氾濫。中郡一帯泥流の…

山梨県 幕府直轄時代の水害

幕府直轄時代の水害 (参考『若草町誌』一部加筆) 享保九年(一七二四)に甲府勤番が置かれてから、明浴維新に至る百四十四年間 享保一三年(一七二八) 全県的に大被害あり。資料多数。 「大満水にて堤川除今諏訪村より切込、水下高一万石余の内鏡中条、藤田、…

山梨県 正保元年(一六四四)と承応二年(一六五三)の水害(『甲斐国志』)

正保元年(一六四四)と承応二年(一六五三)の水害(『甲斐国志』) (参考『若草町誌』一部加筆) 正保元甲申ノ秋大水ニテ堤破決ス有野村及水下武拾壱村(百々・上八田・六科・榎原・上下高砂・徳永・筑山・飯野・在家塚・西野・上下今諏訪・上下今井・曲輪田・…

若草町の風水害(現甲斐市)の歴史

若草町の風水害 (参考『若草町誌』一部加筆) 若草町の地域は東側が釜無川氾濫原、北西側が御勅使川扇状地、南側が滝沢川の氾濫原という地理的条件のため、昔から度々風水害の被害を被ってきた。とくに鏡中条、浅原地区は度重なる釜無川の氾濫により被災の…

『山梨県水害史』

『山梨県水害史』 (参考『若草町誌』一部加筆) また、『山梨県水害史』には次のような記述がある。 信玄の堤防は水を以て水を流すの法に則りて修築し、之を保護するに人力と自然力とを併用したるものにして、彼の移民保護の如き又御幸祭の如きは、其政策施…

『甲斐国志』巻之二十八 山川部第十二(御勅使川)

『甲斐国志』巻之二十八 山川部第十二(御勅使川) 口碑ニ云古昔洪水ニ因テ、勅使ヲ下シ堤防ヲ修セラルゝ事三次、遂ニ成績アリテ西郡諸村ヲ開ク事ヲ得タリ。民其徳ヲ不朽ニセント御勅使川と称ス。其後藪百歳ヲ経テ川路彌々高ク、水勢建瓶ノ如クナリシカバ釜無…

『甲斐国志』巻之二十八山川部第九(釜無川) 信玄堤

『甲斐国志』巻之二十八山川部第九(釜無川) 信玄堤 古老ノ説ニ雁行ニ差次シテ重復セル堤ハ甚タ利益アリ、其故如何トナレハ河邊ニ棄地アレハ、洪水ノ時自由ニ流レテ激怒セス、堤防壌決ノ患ナシ水漸々ニ耕地ニ入レトモ、敢テ秋稼ヲ害スルニ至ラス、砂石モ従ヒ…

山梨県 武田信玄の治水

武田信玄の治水 (参考『若草町誌』一部加筆) 後奈良天皇の天文十年(一五四一)武田晴信(信玄)は父信虎を駿河に追放して甲斐の国主となった。その前年の天文九年に大暴風雨があり、十一年秋には釜無川の大洪水のため、甲斐一円は泥海と化し、田畑・人畜の被…

上古より武田信玄公の時代までの山梨県の水害

上古より武田信玄公の時代 (天文十年・1541)までに次のような大きな風水害の記録が残されている。 (参考『若草町誌』一部加筆) 景行天皇 (一二二) 霧雨 武烈天皇八年 (五〇六) 大洪水 養老二年 (七一八) 大洪水 天平八年 (七三六) 大洪水 延暦八年 (七八九…

白州町に建設が進む野菜ドーム

甲州街道 白州町 横山の供養塔

甲州街道 白州町 横山の供養塔 横山山頂に五、二×一、八×一、五メートルの無銘の巨石がある。この石について、明治六年の峡中新聞によると、 明治十一年前花水橋供養の宝塔をつくるため台ケ原の山中より引き出したものであるが、この年改めて花水橋の基礎と…

甲州街道 白州町 花水坂

甲州街道 白州町 花水坂 釜無川左岸にあり、台ケ原から日野へ至る急坂。日野からこの坂を経て台ケ原へ出、信州へと向う通が、甲州街道以前の信州へ通ずる主要な通路の一つで、逸見路と呼ばれる。 江戸時代には、水害等により架橋が落ちて通行できなくなった…

甲州街道 武川町供養塔 上三吹の供養塔群

甲州街道 武川町供養塔 上三吹の供養塔群 上三吹の村はずれに神明社があり、その東にもと浄土宗の無量院があった(今廃寺)。その境内に多くの供養塔がある。 ①地蔵 街道沿いにあったが、道路工事により現在地に移転した。(台座)「安永六丁酉九月吉日 三吹…

甲州街道の句碑 武川町舞鶴の松 新屋敷の句碑

甲州街道の句碑 武川町舞鶴の松 新屋敷の句碑 「長松山萬休院の境内年ふる松着あり、通りぬけ二丁の廻り、 見る人に見せばや松の深みとり 元治元年 月影舎松渓(花押)」。 松渓は三吹村の人で、平右衛門武敬といい、文化十四年(一八一七)生まれ。この句は…

甲州街道の寺 武川町 万休院

甲州街道の寺 武川町 万休院 曹洞宗。元亀二年(一五七一)馬場民部の開基という。境内にはアカマツの巨木があり、四方に大きく枝を伸ばし、その樹形の美しさから舞鶴マツと呼ばれ、国指定天然記念物。甲州八十八ケ所霊場の第四五番札所である。

甲州街道の石造物 武川町 三吹の一里塚

甲州街道の石造物 武川町 三吹の一里塚 『大概帳』に「木立無レ之 但、左右之塚共台ケ原宿・加宿三吹村地内」とあり、『道中絵図』にも大武川を渡り、少し行った道の左右に置かれているが、現状は何も残っていない。

甲州街道の石造物 武川町 八幡神社

甲州街道の石造物 武川町 八幡神社 伝説によれば、甲斐守田辺史広足が男山八幡を勧請したのが始まりという。牧原の氏神である。

甲州街道の石造物 武川町 牧原の道祖神

甲州街道の石造物 武川町 牧原の道祖神 バイパス工事に伴い現在地に移されたという。石祠が二基あり、祠内に九石、両石祠の間にも丸石を祀る。 右の石祠には「明和七年口八月吉日 普村中大小之氏子」、 左の石両には「享和元年酉八月吉旦」 の刻銘がある。た…

甲州街道の石造物 武川町 牧原下宿の題目塔

甲州街道の石造物 武川町 牧原下宿の題目塔 もと個人宅地内に建てられたものであるが、後に甲州街道沿いの現在地に移されたものという。三千箇寺参詣成就と日蓮の五首遠忌を記念して、牧原村の斎木源左衛門によって元明元年(一七八一)七月十五日建立された…

甲州街道の石造物 武川町 牧原下宿の庚申塔

甲州街道の石造物 武川町 牧原下宿の庚申塔 「庚申塔 文政五年壬三月日 惣村中」

甲州街道の石造物 韮崎市上円井の名号塔

甲州街道の石造物 韮崎市上円井の名号塔 旧宮脇村との境界にあるので境界石とも呼ばれている。 「南無阿弥陀仏一蓮寺(甲府市)法阿上人本暁書(花押) 安政七庚申三月吉辰日 念仏本願人 宮脇村芳右衛門・上円井邸世話人・宮脇邸同・牧原邸同・黒沢邸同・新…