山梨県○昭和三十四年の台風七号・十五号災害

○昭和三十四年の台風七号・十五号災害
(参考『若草町誌』一部加筆)

昭和三十四年八月十四日の七号台風と、九月二十六日~二十七日の十五号台風(いわゆる伊勢湾台風)は、本県にとっては明治四十年災害以来の大きな災厄をもたらした。
八月十四日午前六時半ころ、駿河湾から富士川河口に上陸した台風は富士川に沿って北上した。最大風速は東南東三三・九m(瞬間最大風速は四三・二m)と甲府気象台開設以来の記録となり、時速七五キロの猛スピードで甲府盆地西部を北上、九時には長野市西方を通り、十時ころには直江津から日本海に抜けた。最大日雨量は一六〇、三ミリに達し、一時問雨量は県南で八〇ミリ、韮崎で四八ミリ、薮の湯で三七ミリ、芦倉で三五ミリ、甲府で一九ミリという激しさで被害は全県下に及び、死者・行方不明九〇人、負傷七九四人、全壊・流失家屋一、九八二戸。この二つの台風による県下の被害額は七号が三一一億二千万円、十五号が八九億二千万円という大きなものであった。
農作物の被害状況をみると、先ず水稲は七号台風により全県的に水田の冠水・流失・埋没が広がり、穂ずれ、葉先枯死などで作柄は不良となった。その後九月上旬まで高温多照の好気象に恵まれたため作柄もやや持ち直したが、そこへまたしても十五号台風の来襲により県下の水稲はほとんどが倒伏し、早生地帯の登熟期の水稲、盆地一帯の出穂後二十日前後の水稲とも大きな被害を受けた。
日川、重川、釜無川など各河川の氾濫により流失・埋没した水田は六三九ヘクタールに達し、特に北巨摩郡武川村、白州町、韮崎市など米作地帯が被害甚大であった。