〔白州町の近世〕(昭和59年 「角川日本地名大辞典」による)

〔白州町の近世〕(昭和59年 「角川日本地名大辞典」による)
江戸期の村々天正17(1589)の関東総検地に際し,甲斐国の検地は伊奈忠次が行い、慶長年間(15961615)には大久保長安を検地奉行とする慶長検地が行われた。当町域の江戸期の村々は、巨摩郡武川筋に属し,天保郷帳」には上教来石・鳥原・大武川・下教来石・自須・台ケ原・横手・大坊新田(横手村枝郷)・片颪の9か村が見える。
江戸初期の支配は上教来石・鳥原・大武川の3か村が幕府領、下教来石から横手の4か村が旗本馬場氏知行,片颪村が同曲淵氏知行,中期には甲府藩頷、後期には幕府領となっている。
甲州街道の宿場町当町内を甲州街道が通過し,台ケ原,教来石が宿場として栄え,現在でも往時をしのばせる家並み、屋号が残る。台ケ原宿は韮崎,上蔦木に伝送したまた教来石宿は慶長年間の甲州街道設置時には見られないが、後になって台ケ原と蔦木の中間に置かれた。化政期における馬数は台ケ原で50,教来石で39頭を数えている(国志)
なお茶壷道中は台ケ原の田中明神拝殿で一宿した。山口には信州口の関門として番卒が常駐した山口番所が置かれた。天保7(1836)甲州天保騒動(郡内騒動)では,巨摩郡の村々を打ちこわし北上した一撲勢が,下教来石で1軒,白須で4軒、台ケ原で3軒を打ちこわし、出兵してきた諏訪藩兵によって教来石付近で鎮圧された。(筆註--これは記載違い、実際は須玉付近)江戸期の寺社としては,13寺・17社を数える。「甲山紀行」「素堂家集」を著した俳人山口素堂は教来石の出身で,20歳頃江戸に出て,松尾芭蕉や戸田茂睡とも親交があった。当町役場内には「目には青葉山ほととぎす初がつを」の句碑がたつ。