柳沢美濃守吉保 家督をつぐ 母の看病

柳沢美濃守吉保の生涯 出生柳沢氏の発祥 柳沢吉保の系譜(『武川村誌』一部加筆)
【綱吉との出会い】
 吉保は、前記のような事情から、生母とは乳児の時期に別れ、摘母音末氏に育てられた。やがて七歳を迎えた寛文四年十二月十八日、通称を弥大郎、諱を房安、また主税といった。
 この日、父安息は吉保を伴って神田の屋敷に参殿し、主君館林侯徳川綱吉に拝謁した。綱吉は三代将軍家光の四男、正保三丙成年(一六四六)の生れで当年十九歳、官位は参議従三位右近衛中将、右馬頭、館林二五万石の城主であった。
 この面謁の時、綱吉はひどく吉保が気に入り、自ら立ってその手をとり、新築間もない館中を連れ歩いたといわれる。元禄文化史上の二立役者の運命的な出会いであった。
【改名、保明】
 延宝元年(一六七三)十一月十五日元服、この噛に通称を保明と改めた。時に年十六歳。
延宝三年七月、年七十四を迎えた安忠は、嫡男吉保が十八歳になったのを壊に隠居を願い出て許され、家督を吉保に譲ることになった。
 吉保は小性組番士を命ぜられ、中根正弘の組に編入された。小性は小姓とも書き、将軍付近に扈従して兼務を処理する臣をいった。
【結婚】
 延宝年十二月、吉保は武川衆出身の旗本、曽雌盛定の二女で、当年十五歳になる定子との間に婚約が整った。曽雌盛定の妻は吉保の祖父信俊の姪孫に当り、好都合であったらしい。
 延宝四年二月十八日、十九日の吉保と十六歳の定子との間に華燭の典が挙げられた。
【母の看病】
 延宝五年、吉保の嫡母青木氏が病床に臥する身となった。吉保は誕生以来二〇年、青木氏を実母と信じて孝養の限りを尽して来たが、いよいよ病いが重いと聞くと、病室を離れずに看病し、安んじて重病人の看護を托せるというので、吉保の襁褓の頃よりの乳母を、わざわざ呼び寄せて看護に遺憾なきを期した。しかし、吉保の尽力もその甲斐なく、六月十六日に没した。吉保の悲欺はたとえんかたなく、市ヶ谷の月桂寺において丁重な葬儀を執行した。法名は恵光院殿歓秋妙喜大禅定尼という。