【柳沢壱岐守信勝 柳沢氏の発祥 柳沢吉保の系譜(『武川村誌』一部加筆)】

【柳沢壱岐守信勝 柳沢氏の発祥 柳沢吉保の系譜(『武川村誌』一部加筆)】
信興が柳沢寺に六地葺石瞳を寄進した年から七十余年を経た永禄十年八月七日、武田信玄麾下の武士たちは信州小県郡塩田下之郷諏訪明神社前において、信玄に対し六か条の起請文を捧げた。武川衆(六河衆)は柳沢壱岐守信勝の・青木兵部少輔重満・横手監物満俊・宮脇清兵衛種友・山寺源三昌吉・青木与兵衛信秀・馬場小太郎信盁の七士が連署した。
柳沢壱岐守信勝の自署・花押・血判は、現存していて、当時を偲ばせるに十分であるが、この人の名は『柳沢系図』・『寛政重修諸家譜』のいずれにも見えていない。それは、武田家の没落前後の混乱により系図をはじめ古文書類を失い、寛永・寛政再度の諸家系図編纂の際、信勝に関する資料が提出されなかった結果とみられ、何とも残念なことであった。
 そこで、『柳沢系図』中の人物のうち、信勝に比定し得るのは誰であるかを考えてみたい。
○信興(弥十郎・青木尾張守安遠二男)
― 貞興(弥太郎)
― 信景(弥三郎)
天文十年武田信虎に随ひ駿河国にのがる。
この時信虎、信景をして万松院義晴に仕へしむ。
近江国坂本において討死す。子孫毛利家に仕ふ。
― 信房(靭負)
柳沢斉と号す。甲斐国に任す。
― 信兼
天正八年十月上野国膳城素膚攻めの時先発して軍令に背きしかば、
勝頼怒りて自殺せしむ。
― 信久(主計)
父死するの後、駿河国清見寺にのがれ、のち穴山梅雪に属す。
天正十年六月十九日、大和国宇治田原において戦死す。
    ― 信俊(初め長俊 源七郎 兵部丞)
実は青木尾委守信立が三男。母は漆戸左京亮某が女。
 信興の嫡男が弥太郎貞興である。貞興は、武田信虎の初致から仕え、信虎輔翼のために生涯をささげた。貞興には弥三郎信景・鞍負信房の二子があり、信景は天文十年六月、信虎の駿河遺臣に臣行、身辺を守ったが、のち信虎の名代として、将軍足利義晴に出仕した。
 当時将軍家の権威は地に墜ち、義暗はやむなく近江にのがれて京との回復を期した。天文十七年に京都を回復したが、まもなく三好長好に敗れて近江坂本に奔った。借景はこの時義晴の身辺を護り、身代りとなり討死した。
 借景が国を去ったので、貞興の次男信房が家を継いだ。信房は天文から永禄末年にかけて活動した人であるが、同じ時期に信州下之苛起蓄文に署名した武川(六河)衆の領袖、柳沢壱岐守信勝はこの信房と同一の人物と思われる。
 信房の子信兼は武田勝板に仕えて武功があったが、天正八年上州膳城攻めの際軍法に触れて自刃し、長男信久は逃がれて穴山氏に仕え、家跡は后久の弟源七郎信俊がついだ。