【甲府市一蓮寺に所蔵される『一連寺過去帳』による柳沢氏 柳沢弥十郎信興】

甲府市一蓮寺に所蔵される『一連寺過去帳』による柳沢氏 柳沢弥十郎信興】
 甲府市一蓮寺に所蔵される『一連寺過去帳』は、中世の甲斐における第一級の史料であって、南北朝期から江戸初期にわたっている。
 この過去帳に、永享五年(一四三三)四月二十九日の死者の法名が列記されている。
  立阿弥陀仏、整阜五年四月廿九日  柳沢
  受阿弥陀仏 同       日  山寺
  声阿弥陀仏 同       日  牧原
 この日、巨摩郡山梨郡の境、荒川河原において武田右馬助信長の率いる日一揆が、逸見・跡部ら反武田の諸将の率いる輪宝一揆と激戦を交え、日一揆側は惨敗して柳沢・山寺・牧原ら武川の三将をはじめ、河内・鷹野・吉田・矢作・林戸・山県などの諸将を失った。
 この荒川合戦に、立阿弥陀仏柳沢氏が部将として参戦していることは、柳沢氏の発祥が「青木家譜」の記すところよりはるかに遠く、応永年間以前にある(こと)を証していると考えられる。
 そこで思うに、応永年間以前に青木氏から分派した柳沢氏が、永享五年に討死したため、これが補強のため、文明~大永の間に青木家が再び柳沢氏へ信興を送りこんだのであろう。
 したがって、柳沢弥十郎信興は、柳沢家の始祖ではなく、中興の祖というべきであろう。
 この信興が晩年になって出家し、菩提所竜華山柳沢寺に一基の六地蔵石幢を寄進した。その幢身には次のような銘が彫られている。
「明応五年丙辰三月二日 願主口透謹白」
 額主□(?)透の名は磨滅していてよく読めないが、柳沢の地において、中世の地頭柳沢を偲ぶ縁(よすが)となるのは、この石幢一基と、大門跡に立つ竜華柳沢寺の万霊塔一基だけである。