山梨県、近世以前の古道(『白州町誌』)一部加筆

現在国道20号線を長野県に向かって白州町尾白川橋を渡ると左側食堂(現在休店中)があり、その傍らに「道標がある」その説明に「原路」とある。これは間違いであり、それは下記の資料から明白である。「原路道」ではなく「川路道」が正しい。この道標は昔、釜無川の辺にあった。ものを現在地に移転した。その折に逆転した道標をそのまま現在地に設置した。
 
山梨県、近世以前の古道(『白州町誌』)一部加筆
 甲州は山岳重畳として山国であったから、他国との交通は不便であった。古道としては九筋があって、武田時代に整備されたというが、定かなことはわからない。甲斐国志に「本州九筋ヨリ他州へ達スル道路九条アリ、皆路首ヲ酒折二起ス、古クヨリ公庁ノアリシ所ナラン」とあるが、時代の推移により中心地に集中する道路もおのずと変わり、岡部・一宮・八代・石和時代から、のちには甲府が政治・文化の中心となるころには、古道の改廃もあった。
 
穂坂路(信州口)
敷島町千塚から穂坂に至る道であるところから、路名となった。双葉町(現甲斐市)志田・宇津谷・上野山・宮窪・三之蔵(韮崎市)を経て、小笠原・神取(北杜市明野町)・江草・小尾・黒森(須玉町)から信州峠を越えて川上に達する。または信州口ともいう。
 
逸見路
穂坂路三之蔵で分岐して、駒井、中条、小田川韮崎市)に至り、小倉を過ぎて江草根古屋(須玉町)に行く。
【平沢口】
また穴平から津金(須玉町)、浅川、樫山(高根町)から佐久平に達する。この道を平沢口という。
【信州西河路】
小田川から分かれ穴山の車坂を登って日野原を通り、花水坂から台ケ原に出て信州に通ずる道を信州西河路ともいう。  
【花水坂】
花水坂については『甲斐国志』は次のように記している。
 日野ヨリ台ガ原へ出ゾル数十町ノ険坂ナリ(或は云う日野坂)白砂山ノ麓ニテ釜無川・尾白川・大深沢三水会同ノ処ヲ花水卜云フ。古時ノ信州路ナリ、若神子ヨリ渋沢・台ガ原へ逓送セリト云フ。白砂山ハ七里岩上ニ秀出シテ頂ニ古松欝然タリ……
 山水石岩最モ風致アリ昔時ハ岩上ニ亭子ヲ構へ山桜数珠ヲ植ユ、花時ニハ曼欄トシテ映ズ、困テ花水ノ名アリトナソ。武河筋白洲ノ松原へモ遠カラズ河ヲ隔テテ相対ス。古人云ク本州東南ノ方ニ富士山ノ陰岳ヲ望ム所在美ナリト雖モ所望処ニヨリ山容勝劣ナキヲ得ズ、所謂花水・御坂・万沢等最モ世ニ称スル処ナリ。(山梨県富士山三景)
【『織田軍記』】
天正壬午四月二日信長大河原ニ御宿陣、三日大河原ヲ立テ五町許リ出レバ富士山能ク顕ハル、御見物ナリ各驚目、夫ヨリ新府へ入ラセラルト有り。
 
【原道】
韮崎から新府を過ぎ、穴山・日野原に出る諏訪上道で、日野原から前記の花水・台ケ原に進むか、渋沢・小渕沢、信州蔦木に達する道筋が利用された。西河路に対して台地上を信州に至るので原路と呼んだのである。
 
五街道 甲州街道、原路・西河路】
 徳川家康は慶長五年関ケ原の戦のあと、東海、東山、奥州、日光、甲州五街道を設けて、各街道に伝馬制をしいた。しかしこの甲州街道は降雨のために釜無川、尾白川、濁川などの出水によって、たびたび通行が不能となって、その機能を十分果すことができなかった。そのため出水時に脇往還の役割をもつ原路が重要視された。『甲斐国志』には次のように記されている。
 原路卜云ハ韮崎宿ヨリ新府墟ノ下ヲ過キ穴山村ニ係り日野ノ原ニ会ス、中世韮崎、渋沢、小渕沢、信州蔦木宿卜鳴行スル事ニナリ、宝暦中駅宿ヨリ支リ訟論ニ依り「西河路」ニ水アリタ往還ナシ難キ時ハ台原宿ハ渋沢ニ出テ、教来石宿ハ小渕沢ニ出テ駅伝可致趣ニ公裁定ルト云、
 このように、「西河路」すなわち甲州街道が出水のため一部通行ができない場合は、台ケ原宿は渋沢へ、教来石宿は小渕沢へ継立てることが公に認められた。しかし小渕沢などが伝馬役の負担が重いためその免除を願いでて、宝暦以後は小渕沢の宿駅業務は教来石宿が出向いて行なうことになった。このように甲州街道が開かれてからも原路に相当の貨客の通行があったものと思われる。
 
【信州路 白須松原・六本松・白洲ノ古松】
駿河の清水、興津、蒲原、富士、鰍沢、韮崎の順路で、台ケ原、教来石、蔦木に至る道であるが、この道筋のうち韮崎以北は、釜無川やその支流がしばしば氾濫して橋梁を流失し、沿岸は荒廃していたので、通路として古くは河内路より大井郷に出て、西郡路から甘利山の麓を清哲、宇波円井、武川村(町)の黒沢、山高、柳沢を経て、横手本村(いま「閑の桜」の木のあるところ辺に関所があったという)、菅原村(現白州町)の竹宇・前沢 (田沢)・鳳来村(現白州町)鳥原・教釆石・山口に至ったものである。
 国志に「白須ノ松原・白須・鳥原両村ノ間釜無川原ニ在り。濁川其中ヲ流ル、松樹密生シテ稲麻ノ如ク、皆直幹雲ヲ払フ公林ナリ、白砂清麗ニシテ、海浜ヲ望ム光景アリ。白州ノ名虚シカラズ、甚賞翫スベシ。松茸・麦茸(シュロ)多シ、其内ニ「一株六幹ニシテ頗ル奇ナル松アリ、是ヲ六本松」卜呼ブ、又萩乾場卜云フ所ニ、「白州ノ古松」卜称スル古木アリ」 とあり、延々一里におよぶ松林は、道行く人の旅情を慰めた。
 
【白須松原 征東将軍宗艮親王
 南北朝建武の昔、正平七年(一三五二)征東将軍宗艮親王は、遠州井伊谷の城より、信濃に向こう途次、しばしこの松原に憩われた。そのときの御歌に
 かりそめのゆきかひぢとは ききしかど いざやしらすに まつひともなし(李歌集)
 
そのほか
 八千代まで ともにしらすのひとつ松 へぬる齢を いのりすみつる (題しらず)
 今しばししばしと 日をやくらさまじ 夏もしらすの 松の下道(題しらず)
 
【白須松原 明治天皇ご巡幸】
とあり、また、明治十三年六月、明治天皇ご巡幸の砌、しばらく御車をとどめさせ、風色をご観賞、松茸の産することを聞かされ、その翌年より五ケ年間、待従職富小路敬直らを、お差し遣わし採取されたという。
さしもの名林も、昭和十六年伐採され、子供広場や宅地・畑と変わり、現在は「白須松林跡」の碑石によって、往古を偲ぶのみである。
 
【棒道 ぼうみち】
八ヶ岳の西麓を直線的に、大門嶺口(長野県)に達する上・中・下三本の軍用道路がある。信玄のころ信濃に進入行路として、直線コースが開かれた。
* 上の棒道 穴山・若神子新町・渋沢・大八田・白井沢・小荒間に進み、信州立沢より大門峠を越えて、東山道窪駅に達するもの。
* 中の棒道 大八田・大井ケ森から信州葛窪・乙事・立沢に合するもの。
* 下の棒道 小渕沢から信州田端・下蔦木に至るもの。