神代桜を詠む「大桜集」編者 塚原幾秋 白州町下教来石の人

神代桜を詠む「大桜集」編者 塚原幾秋 白州町下教来石の人
「大桜集」明治十五年(一八八二)発行、編者は教来石の塚原幾秋である。「大桜」とは、本村山高の神代桜のことである。
実相寺の桜のもとに、芭蕉の句碑を建立した記念として刊行した。
芭蕉の句碑は、県下に三八基余りあるとされているが、芭蕉の足跡とは全く関係なく、蕉風を慕って建立されたものが多い。したがって実相寺の句碑もそれである。
   しばらくは花の上なる月夜かな   はせを
 この中に収められているのは、主として峡北地方の俳人の句であるが、東京、中巨摩、東山梨方面の俳人もいる。
 なかでも嵩山と松渓は別格に掲載されている。
 嵩山は「此大津山の境内に比類なき大桜ありその監禄をしるす」と題して、
   花見ても小百年なり大桜      嵩 山
 また小野松漢は連歌の返しの部分を受け持っている。
   木の太り抱えてためす月の影    さく羅
      鳥のあらせし黍の刈りさし  松 渓
 また、我が新富の里萬休院の庭上の
孤松年ふりて閑なり     
   見る人に見せばや松の深みどり   松 渓
 と舞鶴松の見事さの宣伝もしている。
なお松渓は元治元年に自ら信州往還から新屋敷入口に右句の碑を建立した。
 幾秋も
   月に明け花に暮るるや草まくら   幾 秋
 大桜集の中から本村関係俳人の句をひろって見ると次のとおりである。宗匠幾秋はもちろん、嵩山、松渓の影響力は大きく明治初年の華やかさが知られるところである。
ねもとかと見ゆる一本の桜かな    山高  琴風
我ものにしては月見る住居哉     山高  情三
つくり髪なでなで年の名残かな    山高  美と里
先からも後からくるも花見かな    山高  竜淵
耳の垢とりて待ちけりほととぎす   山高  竜淵
志賀の月石に残して戻りけり     山高  高山
   畑打や頁向にみたる浅間山      山高  豊里
国ふりを唄うて御代の田植かな    山高  桜花
   松島や舟に寝てきく小夜衛      山高  喜信
朝の桜何も交ちらぬ匂いかな     山高  為山
月にして見たし桜の花さかり     山高  花麿
さまざまの噂打ちこむきぬたかな   山高  徳龍
桐ひと葉ちるや小雨の降ったあと   山高  如才
十五夜の空より広きものほなし    山高  石翁
長閑さや亀の背をほし石のうへ    山高  色葉
侘住や日をとり違う寒の入り     山高  素龍
   見通しの畑に花の直路かな      山高  喜椿
踏違う花見の道か下駄のあと     山高  く満女
   隣へものそかぬんで花見かな    黒沢  女山
つくづくと見ているしぎのうきすかな 黒沢  半山
   押おうて居りし花のむしろかな    黒沢  楠谷
   未ださかぬうちから花の所望かな   黒沢  東
類なしと幹も先見る桜かな      黒沢  嵩仙
花の香や松に答ゆる一風もなき    上三吹 松花
萩に萩みだれて花のうねりかな    下三吹 保慶
はつ日影さすや屏風のうら表     下三吹 清逸
曙や尾花の中の一けぶり       下三吹 義翁
松竹の外に影なしほつ月夜      下三吹 菊志
鍬入れて畑の見るや春の雨      下三吹 熊正
しばらくは舟をもかりて夏の月    下三吹 亀山
おだやかな夜の明ふりやはつがらす  下三吹 紫渓
美しき色や旭のふく寿そう      下三吹 三惣
秋ちかき姿に聞や松の声       下三吹 三好
いつの世に植えし神代の桜かな    牧原  五木
行かりやはれて嬉しき朝の空     牧原  武川
花にきて忘れぬ旅のこぞことし    牧原  貞山
花に明け花に暮れけりかねの声    牧原  牧里
 
以上のように本村関係俳人柳沢四名、山高一七名、黒沢五名、上三吹一名、下三吹九名、牧原四名に嵩山と松渓合わせて四二名である。
 なお幾秋は善が巧みであったことから隣村武川近辺の人たちも俳諧を通じて影響することが多かった。晩年は中風症に確り右手の自由を失ったので専ら左手で揮したが、なかなかの雄筆で殊に裏書に巧みであった。明治十七年、七十九歳で遠逝した。