六河衆起請文のなぞ(武川村誌) 柳沢 青木

六河衆起請文のなぞ武川村誌)
柳沢
六河衆起請文に連署した七人の名は、江戸初期に編纂されるそれぞれの家譜(系図)には全くあらわれない。たとえば、柳沢吉保の家譜に壱岐守信勝の名は見えない。柳沢家譜において、永禄一〇年前後の当主は靱負信房で柳沢斎と号するが、格別の事績も記されていない。
青木
また青木氏の場合も兵部少輔重満・与兵衛射信秀、ともに同氏の家譜に見えない。同氏は武川衆中での名門で、天文一〇年一二月、青木尾張守満懸は、武田八幡宮本殿造営に際し、板垣信方・浅利虎在らと小檀那を奉仕した(同宮別当加賀美山法善寺旧蔵本棟札写)。この事件は、武田晴信(信玄)が父信虎に代って甲斐守護になった年のことで、名誉ある本殿造営の大檀那は晴信自身であった。青木満懸はその小檀那で、青木氏一門にとり、この上ない名誉の出来事であった。それにもかかわらず、同家譜には満懸・重満・后秀の名は全く記されていない。
以上のことから考えて、武川衆諸氏が江戸期に幕府に提出したそれぞれの家譜は、武田時代の事績を忠実に記載したものではなく、同族で合議のうえ、無難な記車だけを記して提出したものと考えられる。