武川町 精進ケ滝(史跡と文化財『武川村誌』一部加筆)

武川町 精進ケ滝(史跡と文化財武川村誌』一部加筆)
 山梨県は周囲が山に囲まれ、国立公園が三つ、国定公園が一つあり山紫水明で、自然の景観は全国屈指である。
 本村は南アルプス国立公園の懐に位置し、この山々から発する大武川、小武川、石空川には大小幾つかの滝または名港がある。
 なかでも精進ケ滝は落差一二一メートルあり東日本第一といわれ、武川村としては名勝の一つとして第一等に誇れるものである。
 牧原から車で山高、真原を経て精進林道を約一二キロメートル登り、ここから徒歩で一・二キロメートル石空川沿いに上流に向かって登山道を歩き約一時間で本滝に到着する。
 鳳風山から流れ出る渓谷の水は実にきれいで緑の自然に包まれた景観はすばらしい。この滝は、断層による滝といわれ、下流一・五キロメートルの地点に日本第一級の断層といわれる東北日本と、西南日本とを区分する新潟県糸魚川と、静岡とを結ぶ構造線が通過している。
 この糸魚川-静岡構造線の断層は、再三の活動によって段落ができ、東側は沈降し、南アルプスは上昇した。このため渓流の浸食によって地形は急峻となり遷移点ができたのである。この遷移点が下方浸食によって後退して現在の地点に移り滝ができたのである。
 この渓谷は石空川(いしうとろ)と読み、鳳凰山から流れ出て大武川にそそいでいるが大小七つの滝があり、まさに滝の連続である。
 宝永年中物茂卿(荻生惣右衛門徂徠と号す)、田中省吾(田中清太夫雪翁)とが、餓鬼の嗌(のど)両人この地即ち餓鬼嗌まで探索したが、懸瀑数か所あることは承知しながら精進ケ滝までは登らなかった。
一の滝(魚止の滝)二の滝(初見の滝)三の滝(九段の滝、梯子滝)と続く、昭和三十四年の台風七号によってこの梯子滝はくずれ、現在の遊歩道は迂回しているので見ることはできない。昔はこの滝の右方に添って梯子を掛けて登った。この梯子は毎年青年団勤労奉仕によって掛けかえられていた。ここから本滝精進ケ滝に至るが、この他六の滝、七の滝がある。遊歩道は滝見台で終わっているが、この地点で眼前に見上げた本滝の景観は格別である。
 しばらく行くと本滝が聳える様に垂れかかり、二一一メートルの水のカーテンはまさに天下の名瀑といえよう。滝壷に降りて天を仰ぐと水が河床を離れて花崗岩の垂直に立った岩合いから落下する様は、水しぶきがかかりすばらしい眺めである。さすが武川村の誇れる精進ケ滝は、ナチ(那智)の滝に次ぐ日本第二位の滝といえよう。
 昭和の初め本村柳沢の出身洋画家牛田喬修は武川小学校(当時は富里尋常高等小学校)在職中「精進音頭」を作詞した。
  「山ほ赤石ね滝なら精進よ
     どんと落すよ七十丈
       ソーラ鳳凰
   六根精浄でネ熊笹越えりやヨ
     青葉にのぞくよ縦の帯
       ソーラ鳳風ネ
   精進立岩ネ水道落しヨ
         みやま
     花の深山は鬼あざみ
       ソーラ鳳凰
   こんな奥にもね山時鳥ヨ
     夫婦気取りか岩の影
       ソーラ鳳凰
 この詞のとおり早春のころ氷結した滝は蒼碧の屏風となり、天下の絶景である。また、夏は目にしみるような青葉と高山植物が咲き、鬼あざみと熊笹道をぬければ青葉の切れ目から覗く七〇丈の縦の帯、夫婦気取りの山時鳥が、岩の影に飛びかい、立岩からの水道落し、二十歳台の牛田喬修は正に精進ケ滝をこの様な表現で作詞した。この詞に本村出身の平田泉鳳(鉄寿)が作曲し、昭和の初め盆踊りなどで盛んに歌われた。
 秋は全山紅葉し滝と花崗岩からなる渓谷美は絶佳で、四季を通じて自然の美しさを満喫させてくれる。
 昔神仏に祈願をするため滝水を浴び身体のけがれをとったこと(垢離=こり)が滝の名称の由来ともいう。