素堂の最も有名になった句  目には青葉 山ほとゝぎす 初鰹

素堂の最も有名になった句  目には青葉 山ほとゝぎす 初鰹

素堂の最も有名になった句

  目には青葉 山ほとゝぎす 初鰹
は鎌倉で詠んだものであり、内藤風虎の菩提寺光明寺の裏山から見た鎌倉海岸は絶景であったとされる。
 素堂は『国志』では市右衛門や勘兵衛を名乗ったあるが、他の事蹟資料には見ることができないのである。 ここまで『国志』の記載間違いを資料を訂正してきた、これは『国志』全体の記述に対しての訂正では無く、「素道」の項についてだけのことであることを確認したい。「素道」の項の資料は「濁河地鎮碑」であり当時伝えられていた素堂像が中心に展開したものであり、『連俳睦百韻』や『通天橋』さらに『松の奥』『素堂口伝』などは含まれてはいないのである。
 『国志』の基本資料で他の資料と合致する部分は「名は信章」「字は子晋(漢学の号か)」「生年(月日は他に異説あり)「章句は林春斎」「宗因、信徳らを友とし」「来雪と号す」「人見友元を学友とし」「葛飾安宅に家を移す」「没年」「江戸の墓所」くらいで残りの部分は『国志』のみの記述である。
 潜入観念を捨てて『国志』を再読して、他の資料も熟読してみれば素堂誤伝の箇所が浮き彫りになる。
 最近連歌の発祥地とされる酒折宮に於て連歌の試みが報道されているが、素堂が元禄二年に甲斐の人々の要請に応じて作り酒折宮に奉納した連歌はその後どうなってしまったのか。又都留郡谷村に芭蕉が来た折りに仮寓した高山伝右衛門の別荘の再築が物議を醸しているが、歴史資料から一考を促したい。
 さてここで余り知られていない素堂の晩年について紹介したい。素堂と芭蕉の関係は兄弟以上のものであった事は一部俳諧研究者により究明されているが、それは延宝年間からのことでそれは他の追随を許さないほど密着していた。芭蕉は元禄七年十月十二日に大阪にて死去する。素堂は妻の死の忌中であり、大阪へは行けなかったがその後京阪に訪れる際や句作の中で芭蕉への思慕があふれている。