2014-05-01から1ヶ月間の記事一覧

山高神代桜の和歌 明治時代(『武川村誌』一部加筆)

山高神代桜の和歌 明治時代(『武川村誌』一部加筆) 甲斐 桜井義令 古寺のものときゝしを来て見れば さとの家居も花の下かげ 甲斐 清水謙光 咲きにはふ千もとの花を一本に 集めて見する心地こそすれ 甲斐 八代駒雄 七ひろにあまる桜は七国を たつねてもまた…

実相寺の神代桜にまつわる漢詩 石原嵩山 三首

実相寺の神代桜にまつわる漢詩 石原嵩山 三首 読み下し(『武川村誌』一部加筆) 桜三首 石原嵩山 (守政) 一 幽寺の一株、高きこと二ならず、年を経る幾万、更るがわる相驚く、 誰か知る、実相、真如の月、独り桜花に向かえば、枝頭清し。 二 日本に王と称…

武川町柳沢、使君田を詠った漢詩

武川町柳沢、使君田を詠った漢詩 使君田(字を町尻という、兵部丞の後、弥太郎と称する人の開きし田なりとぞ) 荻生徂徠(茂卿) 一片の石田、我が公を諳んず、雨時、歳々、流風を憶う、 当時、応に九推の地たるべし、厭わず、人の田舎翁と呼ぶを。

武川町柳沢、観花磯を詠った漢詩

武川町柳沢、観花磯を詠った漢詩 峡中詞藻詩賦篇(昭和三年九月廿日発行、原漢文) 観花磯(柳沢村の西北方に在り) 荻生徂徠(茂卿) 行くゆく峡口を過ぐれば、馬、飛ぶが如し、首を回らせば桃源、翠徴を隔つ、 黄髪、垂砦、今も尚お在り、依( さも)稀 ( に…

武川町柳沢、餓鬼嗌(がきののど)を詠った漢詩

武川町柳沢、餓鬼嗌(がきののど)を詠った漢詩 峡中詞藻詩賦篇(昭和三年九月廿日発行、原漢文) 物 茂卿(荻生徂徠) 陋俗、漫りに伝う、餓鬼嗌を、元来、天女の琵琶台ならん 渓声、長広舌は猶在り、誰か識る、妙音は是れ弁才なるを。 田 雪翁(田中省吾)…

実相寺の神代桜にまつわる漢詩 読み下し(『武川村誌』一部加筆)

実相寺の神代桜にまつわる漢詩 読み下し(『武川村誌』一部加筆) 峡中詞藻詩賦篇(昭和三年九月廿日発行、原漢文) 山高桜 富岡秋介(敏明) 古桜、播屈すること幾千年、板は九泉に到り、枝は天を顧う、 酔うて花陰に臥し、語を聴くを悦ぶ、前身は、我も亦…

武川町実相寺の神代桜 碑文

武川町実相寺の神代桜 碑文(石碑は建立されていない) 甲州山高邑の桜樹の碑文(『武川村誌』一部加筆)未建設 峡の山高邑は一条氏の城址なり。 精舎有り、実相寺と曰う。 昔日蓮上人峡中を遊化し、法を説かるるの処なり。 南面に老桜有り、周囲七尋、蓋し…

実相寺神代桜の謂れ(『武川村誌』一部加筆)

実相寺神代桜の謂れ(『武川村誌』一部加筆) 「山梨県名木誌」・「史伝と文学」(昭和六年) 伝へ言ふ、今より一千八百十余年前、景行天皇の皇子日本武専東夷征定の帰途此の地に駐まり紀念に此の桜を手植せらるると、其の後千数百年を経て日蓮上人此の地に…

《山高八左衛門尉源信賢奉納自詠自筆百首》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)  高龍寺十二景は東都山高家の作とあるとおり山高氏の作ったものを徳翁が書き写し掛軸としたものである。

《山高八左衛門尉源信賢奉納自詠自筆百首》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆) 高龍寺十二景は東都山高家の作とあるとおり山高氏の作ったものを徳翁が書き写し掛軸としたものである。 信賢は八左衛門尉源信賢といい、甲斐源氏の一族として、一条源…

《柳沢十景》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)

《柳沢十景》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆) 柳沢十景 柳沢春駒 富山侍従松平出雲守 利保 けふ幾日( いくか)柳の影になれぬらん沢辺はなれぬ駒の声かな 天神両梅花 菅沼伊賀守 走敬 ふかき哉神の恵みの瑞垣ににほへる梅の花のいろ香も 花園仮庵…

武川町三吹 《長松山萬休院の寺景八勝》

《長松山萬休院の寺景八勝》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆) 庭前老松 千代かけて契や置しあし田鶴のなれて訪来る庭の老松 大門納涼 真木茂る此の下蔭にたゝずめば憂も熱もをはなれけり 文殊堂紅葉 諸人のあゆみをよする法の庭錦ちり敷く樹々の…

柳沢吉里の和歌《甲斐八景、選定企画》

柳沢吉里の和歌《甲斐八景、選定企画》 なお、宝永三年八月十五日住吉明神(甲府)に奉納した一〇〇首一軸、享保四年正月一日同社奉納一五首、五〇首一軸の和歌があると『甲斐国志』に記してある。 また享保年中に吉里は甲府八景を選定企画したことは大きな…

《柳沢吉里の和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)

《柳沢吉里の和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆) 柳沢吉保の男。幼名網干代または柳沢兵部安暉といい、元禄十二年十二月三日従四位下越前守に叙任され、同十四年御氏講を賜り松平伊勢守吉里と改めた。宝永六年丑六月八日家督甲斐守と改め四品…

《吉保の和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)

《吉保の和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆) 吉保は元禄十四年(一七〇一)から、宝永六年(一七〇九)の九年間吉保といい、宝永六年綱吉の死と共に退官し除髪して保山と号し江戸別邸駒込の六義園に隠居し、正徳四年(一七一四)に五十九歳で…

<柳沢吉保の家臣 文人、淇園>

<柳沢吉保の家臣 文人、淇園> また、一方には家臣の中からも立派な文化人が育っており、柳沢淇園(柳沢淇園 - Wikipedia)その一人である。洪園は名を里恭(さともと)といい柳沢吉保の家老、権太夫保格の二男で、宝永元年(一七〇四)に江戸に生まれ、あ…

《吉保の和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)

《吉保の和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆) 吉保は教養も高く国学にも心を用い、殊に和歌を嗜んで、北村季吟法印に師事し、古今伝授を再度にわたって許された。 今、甲府一蓮寺には柳沢家寄進の「永慶寺殿肖像」が所蔵されていて、吉保自詠…

柳沢吉保家の和歌 定子 染子 町子

<吉保家の和歌> 吉保は元禄文化の中にあって自ら学問、文芸を愛したばかりでなく夫人、側室、その外関係ある女性たちにも文芸の素養ある人々を集めはべらせていることは有名である。これも綱吉に対する一種の忠誠心が重なり合ったといってよいのかも知れな…

柳沢吉保 めぐみある君に仕へし甲斐ありて雪のふる道今ぞ踏みなん

(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆) 柳沢吉保は刑部左衛門安息の二男で万治元年十二月十八日江戸市ヶ谷に生まれた。 <柳沢家> もともと吉保の生まれた柳沢家は甲斐源氏の流れを汲む武川衆の歴々の家である。柳沢氏は青木氏から分かれた家であるが…

《柳沢吉保とその周辺の人々の和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)

《柳沢吉保とその周辺の人々の和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆) 柳沢吉保は刑部左衛門安息の二男で万治元年十二月十八日江戸市ヶ谷に生まれた。 <柳沢家> もともと吉保の生まれた柳沢家は甲斐源氏の流れを汲む武川衆の歴々の家である。柳…

《良純法親王と和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)

《良純法親王と和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆) 良純親王は父御陽成天皇の第八皇子、母は典侍具子といい、庭田大納言源重貞の女である。 慶長八年十二月十七日の御生まれで八の官と称された方である。仏門に入られてから法親王と称した。…

《柳沢を詠んだ和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)

《柳沢を詠んだ和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆) 現在の北杜市武川町柳沢は旧駒域村(現在の白州町横手。大坊地域)に属していたが、昭和三十年大武川を境として、武川村に分村合併した。その後北杜市へ。 しかし古代には官牧(真衣郷)の…

《牧の原を詠んだ和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)

《真衣野牧詠んだ和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆) 牧原は、今では「まぎ」また「まぎのはら」と濁って呼んでいる。漢字で「牧原」と書いているが中に「の」は入らないのである。 古くは万木、真衣、真木などとも書かれた。『和名抄』には…

《真衣野牧詠んだ和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)  牧原は、今では「まぎ」また「まぎのはら」と濁って呼んでいる。漢字で「牧原」と書いているが中に「の」は入らないのである。  古くは万木

《真衣野牧詠んだ和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆) 牧原は、今では「まぎ」また「まぎのはら」と濁って呼んでいる。漢字で「牧原」と書いているが中に「の」は入らないのである。 古くは万木、真衣、真木などとも書かれた。『和名抄』には…

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柳沢吉保公&地名武川町柳沢

吉保公の事績年表 柳沢吉保公尊像(2) 柳沢吉保公 評判 柳沢吉保公のサイト 「武川村誌」(1) 「武川村誌」(2) 「武川村誌」(3) 吉保公 大和郡山城図面 安政年間...阿部家文書... 吉保公 大和郡山城図面(安政年間) 吉保公の祖地北杜市武川町の文化…

白州町 田園風景 八ヶ岳遠望

白州町 田園風景 甲斐駒駒ヶ岳遠望

釜無川幻想 川面に映える風景と七里岩

現在の白州町 尾白川渓谷

美しきかな水田風景 白州町甲斐駒ケ岳 八ヶ岳遠望