山梨県の歴史の歪み 甲斐古代牧の謎

甲斐古代牧の謎                                       
 
 山梨県の歴史は古代から語り継がれていたものは少なく、後に中央に残された断片的な資料を基にした研究によるものである。歴史資料はその研究者の生きた時代背景や政治体制によって大きく内容が異なっている。戦時中などは国や主君の為に自らの命を捧げる人物がもてはやされた。近代の戦時中には甲斐の名将武田信玄などは親を離反した者として逆賊として扱っている書物もある。逆に主君の為に命を捧げた馬場美濃守信房は戦うもの手本として扱われている。
 私の住む峡北地方は古代からの歴史豊かな地であり、それは縄文、弥生、古墳、古代、中世と大地に刻まれている。しかしそれを伝える歴史資料や遺跡それに遺構は少なく、発見や発掘されても確かな資料にはなっていない。また不明の時代も長く後世の研究者が私説を交えて定説としている事項についても不確かな部分を多く抱えている。
 一般の人々の歴史観は研究者の伝える書よりテレビドラマや小説などに大きく影響を受け、それを歴史事実と捉えてしまうものである。歴史小説などは書く人が主人公を誰にするかで善人も悪人になる。逆の場合も多く見られるものである。
 甲斐の国と深い関わりも持ち、祖先が武川村の出身の柳沢吉保などは時の徳川家光将軍の中核をなした人物なのに講談や小説などで悪役として扱われて以来、現在でも評価が低く、龍王町篠原出身とされる国学者山懸大弐なども国に背いた人物として地域の懸命な継承努力にも関わらず県内全般に於てはこれまた評価が低い。市川団十郎などは父親が今の千葉県市川の出身とも言われている中で、「団十郎の祖先は武田家の家臣堀越重蔵で後に江戸に出て団十郎が生まれ、故郷の市川を名乗るとなる。団十郎の出身地とする三珠町には歌舞伎記念館が建ち地域案内書や報道は史実の様に伝える。
 あの松尾芭蕉が師と仰ぐ山口素堂などは甲斐国志編纂者の説を後生大事に守り、歪めた素堂像を今も伝える。筆者は素堂に関する新たな史実を次から次へと提示してきたが、研究者は見向きもしない。一度できあがった定説は覆す事は難しいもので、真実は明確に違っているにも関わらずである。中高年になると歴史が身近になり、研究に手を染めたり色々な勉強会や見学会に参加する人々が増えてくる。しかし『国志』や研究者の歴史書から出発すると本当の歴史は見えてこないものである。何事も探究しようと志したら自らの足で稼ぐことが肝要である。歴史学者の書した文献はあくまでも参考資料として扱うべきであり、市町村の歴史の部や遺跡報告などは難しすぎてほとんどの家庭で開かれずに眠っている。
歴史は広角度の調査が必要なのである。山梨県郡内地方の宮下家に残存する『宮下文書』などは歴史学者偽書扱いで見向きもしない傾向にある。一方同様(?)な書に『甲陽軍艦』がある。こちらは研究者はその内容を部分的には否定しながら結局は引用して展開している。偽書扱いの書にも真実が見え隠れするもので全面否定は戴けない。『宮下文書』は甲斐の古代それも富士周辺の古代には研究資料として欠かせない内容で一読に値する。歴史を志す者は歴史書を色分けすることなく読んでみることが大切なのである。
 
 さて今回は北巨摩地域の古代歴史の中で最も文献資料が充実している-北巨摩の古代勅使御牧(官牧)-の存在について資料を基にした調査結果を述べてみたい。これまでの定説が正しいかどうかは読者に判断を委ねたい。(諸著参考)
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