白州のご案内 白州町の概要

はくしゅうまち・白州町<白州町>
(昭和59年 「角川日本地名大辞典」による)
 
〔成立〕
昭和30(1955)71,鳳来・菅原の2か村と、駒城村の横手・大坊地区,長坂町の一部が分離合併して成立
〔面積〕
137,56km呈〔世帯〕1,264
〔人口〕
4,391
〔町の木〕
アカマツ
町役場〕現在は北杜市白州町支所
408-03山梨県北巨摩郡白州町白須32番地
〔町名の由来〕
町域を流れる大小河川から流出した白砂が形成した白州にちなむ。
〔立地〕
南アルプス東麓の町県の北西端に位置し,甲府の北西約30kmにあたる。東は釜無川を境に小淵沢町・長坂町,南は大武川を境に武川村中巨摩郡芦安村,西および北は長野県諏訪郡富士見町・上伊那郡長谷村に接する。西は南アルプス北端、東は八ケ岳の山麓の浸食崖七里岩で区切られ標高600700mに耕地・集落が展開している。町の東端を釜無川が南流し,釜無川の支流の南アルプスに源を発する流川・濁川,尾白川などの中小河川が東西に流れ扇状地を形成している。
主産業は農業であるが,町域の約90%が山林で占められている。過疎化現象が進行する中で農業振興や企業誘致のほか,南アルプス国立公園,県立南アルプス巨摩自然公園の一部に属していることから観光開発も進められている。釜無川と並行して国道20号白州町が通る。
〔沿革〕
釜無川右岸台地の遺跡釜無川右岸の標高600700mを中心とした段丘および緩やかな傾斜の台地上に多くの遺跡が残されている。台ケ原の中台遺跡,白須の大久保遺跡や竹宇一帯,鳥原地区などは,縄文前期から中期にかけての大規模な遺跡としてよく知られている。また,下教来石地域の板橋遺跡からは、かつて住居の炉が発見されたと伝えられている。古墳は、鳥原の柏木に円墳があったと記録されている(昭和54山梨県遺跡地名表),現在は消滅してしまった。奈良・平安期の土器が,竹宇・鳥原・台ケ原の根古屋、および陣ケ原などから採集されている。これに対して,釜無川左岸地域は、急峻な地形のため遺跡は少ないが花水地区の押野からは縄文中・後期の土器や石器,平安期の土師器・須恵器が採集されている。
〔古代・中世〕
真衣野牧古代律令制下における当町域は,巨麻郡に属し,牧の原(武川村)付近から当町にかけては真衣郷に比定される。当郷は平安期御牧の1つ真衣野牧として,甲斐国における重要な馬産地であった。この牧は,八ケ岳山麓に比定されている柏前牧と合わせて,30疋の駒を出すことが定められている(延喜式)
〔白須の松原〕
鎌倉期の史料は乏しく詳細は不明であるが,当町内を鎌倉往還が通り,武川衆の祖一条源八時信が次男貞信を白須に封じたといわれている。白須から北西に釜無川沿いに続く白須の松原は、南北朝期に定良親王がここを通って「仮初の行かひちとは聞しかといさやしらすのまつ人もなし」(李花集/群書14)と詠んだことで有名である。
また教来石は,中世教来石郷とよばれた。戦国期,教来石は馬場美濃守信房の領地となった。白須にその館批と、信房が永禄年間(155870)に移した若宮八幡社がある。また,鳥原には文禄3(1594)に再建された石尊神社がある。集落の東の畑の中に「殿畑」とよばれる屋敷跡があるほか,武川村との境にあたる中山にも中山砦がある。さらに花水地区の裏山には東を大深沢によって浸食された城山があり,天正10(1582)の花水坂の合戦の舞台となった。中世創建の寺院としては逸見清泰の開基と伝える清泰寺(曹洞宗)をはじめ、弘安元年(1278)創立の教慶寺(曹洞宗),弘長年間(126164)創立という来福寺(臨済宗)がある。
〔近世〕
江戸期の村々天正17(1589)の関東総検地に際し,甲斐国の検地は伊奈忠次が行い、慶長年間(15961615)には大久保長安を検地奉行とする慶長検地が行われた。当町域の江戸期の村々は、巨摩郡武川筋に属し,天保郷帳」には上教来石・鳥原・大瑚11・下教来石・自須・台ケ原・横手・大坊新田(横手村枝郷)・片颪の9か村が見える。
江戸初期の支配は上教来石・鳥原・大武川の3か村が轟府領,下教来石から横手の4か村が旗本馬場氏知行,片颪村が同曲淵氏知行,中期には甲府藩頷、後期には幕府領となっている。
甲州街道の宿場町当町内を甲州街道が通過し,台ケ原,教来石が宿場として栄え,現在でも往時をしのばせる家並み、屋号が残る。台ケ原宿は韮崎,上蔦木に伝送したまた教来石宿は慶長年間の甲州街道設置時には見られないが、後になって台ケ原と蔦木の中間に置かれた。化政期における馬数は台ケ原で50,教来石で39頭を数えている(国志)
なお茶壷道中は台ケ原の田中明神拝殿で一宿した。山口には信州口の関門として番卒が常駐した山口番所が置かれた。天保7(1836)甲州天保騒動(郡内騒動)では,巨摩郡の村々を打ちこわし北上した一撲勢が,下教来石で1軒,白須で4,台ケ原で3軒を打ちこわし,出兵してきた諏訪藩兵によって教来石付近で鎮圧された。(筆註----これは記載違い、実際は須玉付近)江戸期の寺社としては,13寺・17社を数える。「甲山紀行」「素堂家集」を著した俳人山口素堂は教来石の出身で,20歳頃江戸に出て,松尾芭蕉や戸田茂睡とも親交があった。当町役場内には「目には青葉山ほととぎす初がつを」の句碑がたつ。
〔近現代〕
行政区画の変遷当町域の村々は,明治元年甲府,甲斐府,2甲府県の管轄を経て同4山梨県下となる。
7年駒城村(大坊新田・横手の2か村とほか1か村),
8年鳳来村(上教来石・下教来石・鳥原・大武州の吐か村)・菅原村(白須・台ケ原の2か村)清春(片颪村とほか2か村)が成立,
11北巨摩郡に所属した。
22年市制町村制施行の際清春村の」部(小淵沢町)を分離し,鳳来村・菅原村・駒城村・清春村はそれぞれ1村で存続した。
昭和30清春村が長坂町の一部となり(1),
同年7月鳳来村・菅原村および駒城村横手・大坊,長坂町片颪が合併して白州町となる。
過疎化と農業振興明治5年学制にともない菅原学校・教来石学校(のちに鳳来と改称),11年には駒城学校が設立され,その後,各小学校を経て,昭和52年鳳来・菅原・駒城の3小学校を統合し白州小学校となった。昭和22年新しい学校制度にともない菅原村外二力村組合立白州中学校が設置され,30年町立となり,54年新校舎が完成している。
また明治30,県内に相次いで銀行が設立され,当町域にも台ケ原に菅原銀行が設立されたが,昭和5年峡北銀行を経て同12年廃止された。
当町の生産基盤は農業であり,耕地の割合は水田58,42%となっており,生産は稲作が首位を占め,次いで果樹(ブドウ,モモ),畜産(肉牛)などのほか養蚕その他となっている。昭和342度の台風災害を契機として、翌356,677人をピークに人口は減少の一途をたどり,若年層の流出を中心に過疎化の進行が著しい。同39年農業改善事業が開始されたが,45年過疎地域の指定を受け、過疎対策事業を推進している。農業振興をめざし,農地の流動化を図る土地銀行,大型農業機械のリース,共同使用を行う機械銀行,さらに堆肥銀行などのユニークな試みもみられる。なお,下教来石・前沢・白須・中山には,平均3,4戸で組織されたミニ農場があり,肉牛飼料・コンニャク・ハウス花卉などの栽培が行われている。
また鳥原では良質な水と自然環境を背景としたウイスキー工場(サントリー白州ディスティラリー)などの企業誘致をする一方で,観光開発を進めている。
〔史跡・文化財文化施設
県天然記念物に横手の駒の松,白州殿町のサクラ,清泰寺のカヤ,本良院の大ツゲ,文化財諏訪神社本殿付棟札・本社拝殿再建諸色勘定帳がある。
文化施設サントリーウイスキー博物館がある。