台ケ原宿 「白州町誌」第六節街道と村(伝馬宿と助郷)より

台ケ原宿 「白州町誌」第六節街道と村(伝馬宿と助郷)より
 
徳川氏が政権を掌握すると、江戸を中心に五街道を制定し宿駅を設けた。宿場は本来、公用の旅行者の貨客の輸送を円滑にすることを目的としていたが、もちろん一般旅行者も利用した。公用の旅行者とは、将軍の朱印状や幕府の証文を持参するものである。幕府の名代で朝廷への使者、伊勢神宮代参などに当る幕府役人や大名をはじめ、公家、門跡が主要なもので、変ったところでは「宇治御茶壷御用」などがあった。
宿駅における逓送(継ぎ立て)には
御朱印=公用の貨客で無賃
御証文=公用の貨客で無賃
御定賃銭=公定の価格で割安
相対賃銭=使用者と駄賃稼のもの相互で決める価格で、天保年間ころの例では御定賃銭の約二倍
 
各宿場とも駅伝業務を円滑にするため、常備の馬や人足が定められていた。甲州街道の各宿は、25人、25疋と決められていたがそのうち五人、五疋は火急に備えて待機させていた(囲い人馬)、常備の人馬は宿内の一定の家が当り、交代で勤めたが余暇があると相対賃銭で駄賃稼ぎもした。
公用者はあらかじめ先触れを出すことにより、許可された範囲の人馬を無料で使用でき、不足の場合は御定賃銭によるのが通例である。
諸大名の参勤交代の場合は、御朱印、御証文は与えられたかったから多くは御定賃銭であり、一般旅行社は相対賃銭であった。御定賃銭は人足や馬の運ぶ目方も決められ、各宿場ごとに次宿場までの値段が、高札場に掲げられたのである。一般的には人馬の運ぶ量は次の四種に分けられていた。
本馬(馬へ荷物だけつける)40貫以内。
乗尻(人が乗った馬に荷物をつける)20貫以内。
軽尻(人が乗った場合は小荷物)5貫以内。
(荷物だけの場合)20貫以内。
人足(人の背で運ぶ荷物)五貫以内。
助郷
大通行の場合は、宿場の人馬だけでは消化できず近郷の応援を求めることになる。これが助郷村で元禄7年(1694)制度化され、各宿ごとに助郷が指定された。助郷は宿場の近隣とはいえ、宿場への往復にも蒔間がかかり、しかも交通量の多い時期が農繁期と重たり、さらに動員されるのは働き盛りの男であることなど、農村に与える影響が大きく、しばしば間題が起っている。
先に述べたように宿場は貨客の逓送業務のために設けられたものであるが、一つの村落でもある。従って一般の村落同様、村方三役(問屋などの兼任もある)が置かれ、領主(代官)支配下に属していた。しかし宿場の業務は幕府の所管で、道中奉行の支配下にあり、間屋場を中心に駅伝業務が行なわれていたのである。問屋場は、貨客の継ぎ立てを行なうための事務所であり、その責任者が問屋である。通常は宿場の中央部にある問屋の家が問屋場となり、間屋のほかに年寄、帳付、馬指など宿役人が毎目詰めて業務に当っていた。
年寄は問屋役の補佐であり、帳付は問屋場の下役で毎目の人馬の使用状況を日〆帳に記録した。馬指は問屋場で直接人馬の配置に当る役で、宿内人馬はもとより助郷人馬も差配した。人馬の差配や駄賃の支払い業務は極めて複雑であったから、問屋場での仕事は実際上、帳付と馬指によって行なわれていたと考えられる。
宿場のもう一つの機能は休泊機能である。そのため宿泊のための旅篭屋や休憩所(立場)としての茶屋などがあった。寛永12年(1635)、三代将軍家光によって参勤交代制が定められ、大名や上級家臣が休泊する本陣や脇本陣ができた。
甲州街道は、臨時の通行を除き、信州の高島、高遠、飯田の三藩が利用しただけであったが、他の街道同様に本陣や脇本陣がある。本陣、脇本陣は問屋同様、宿場の中央部にあり、格式も高く間屋や宅主を兼ねる場合もあった。
一般家臣団や庶民が宿泊するのが旅篭屋である。旅篭屋の数は同じ街道でもかなり違いがあるが、通行量の少ない甲州街道は一般的に少なく、農業と兼業のものが多かった。
宿場の町並は、高札場や間屋場、本陣、脇本陣などを中心に、街道の両側に街村状に人家が並び、裏通りもあっても田畑への通行路などであった。また宿の入口や出口には、枡形や鍵の手があって宿内が見通せないようになっていた。
 
《台ケ原宿》
台ケ原宿の起源は明らかでないが、甲斐国志に「甲州道中ノ宿場ナリ、古道ハ逸見筋ソ渋沢ヨリ此二次グ、今ハ韮崎宿へ逓送セリ」とある。
渋沢(長坂)から花水坂を下り、台ケ原に達する古道というのは、近世以前の諏訪口を指していると思われるから、台ケ原は甲州街道の設定以前から、交通集落としての機能を果していたと考えられる。
近世における江戸中心の幹線道路である五街道は、慶長6年(1601)にまず東海道に伝馬制を定めから中山道奥州道中(街道)、甲州街道(道中)、目光道中(街道)が順次整備されていった。
甲州街道は元和4年(1618)に「宿請」が申し渡されたという。(勝沼町誌」)、従って本町内の台ケ原・教来石両宿ともに、このころから宿場として整備拡充されていったと考えられる。すなわち、渋沢から花水坂へ下る古道から、釜無川に沿う甲州街道への移行は、治水や架橋など土木技術と深いかかわりがあり、近世初頭は、このような意味で本県交通史上一時期を画すものといえる。もちろん甲州道中の設定後も洪水には悩まされている。
釜無川をはじめ西部山地から流出する諾河川を横断するための橋が流されることが多かったからである。「此宿前後橋々出水之節流失いたし本道通路差支候砌者、若神子通り渋沢村江当宿より出張いたし、御朱印、御証文、御用物、御状箱等小渕沢村通継立候侯」(宿村大概帳、台ケ原宿)のように、本道が通行不能のときは、韮崎宿から七里岩台上へ上り、渋沢、小渕沢を経て蔦木宿へ逓送した。この場合、宿から渋沢や小渕沢へ出張となり、橋の修復とともに本町の両宿は負担が大きかった。
(略)
当時おおかたの宿場同様、台ケ原宿も高札場や問屋場などを中心に約1キロにわたって道路の両側に家並が続いていた。
国境に位置し、比較的近距離にあった台ケ原、教来石両宿と信州蔦木宿は、人馬の継ぎ立てに関して申し合せがなされていた。すなわち台ケ原宿は、御朱印、商人荷物は毎月1日から25日まで、上りは韮崎宿へ、下りは蔦木宿へ継ぎ立て、25日から晦日まで、下りは教来石宿へ、上りの武家荷物だけは終始韮崎宿へ継ぎ立てることになっていた。
規定の人馬、25人、25疋のうち、4人、4疋は加宿の三吹村が受け持ち、5人、5疋は緊急用の囲い人馬であった。伝馬役は宿内で優劣のないよう配慮され、勤めることの困難なものは「随役金」と称して出金し、病人、子供は随役金も免除された。
(略)
安永八年(1779)の「台ケ原宿人馬勤方二付宿中連印一札」(県立図書館蔵)の定書に
「惣家数九拾四軒之内七拾六軒ハ宿役相勤、残リ拾八軒之内拾軒ハ随役金差出、其外平吉、伊右衛門、新七、幸蔵、甚五左衛門、又七、新五右衛門、松之丞八人之儀ハ親夫相果、後家、子供或ハ重病人ニ而当日難凌困窮之者ニ付、宿中相談之上随役金用捨致侯事」
とある。また同資料によると、台ケ原宿の人馬役金は当時、弐拾両弐分で、その半額は高割、半額は間口割で出金していた。役金は当時の宿役馬37疋、人足3八人に割り当てられるが拾両弐分を馬持ち、残りの拾両を人足役のものが受けとっている。
甲州街道は、東海道中山道と異たり大名通行や商人荷物は少なく、しかも中馬(農民の駄賃稼ぎとして発達したもので、馬による荷物運送であり宿場も一定の口銭を納め付け通すことができた)が発達していた。そのため宿村大概帳にもみられるように、駄賃の割増しも何回か行われたが実利は少なかった。
《お茶壷道中》
先に述べたように甲州街道は、大名通行は少なかったが、近世前半の寛永9年(1632)から元文3年(1738)の間、御茶壷の通行があった。将軍飲用の宇治茶を、東海道は潮風に当るとして中山道から甲州街道を経て江戸に運んだのである。台ケ原の田中神杜は御茶壷の一宿の場所であった。
甲斐国志に「村上官道ノ東ニ在リ、除地四畝廿四参、社記ニ云フ所祀大已貴ノ命ナリ、古神像アリ、馬場美濃守ノ産神ニテ安産ノ守リ神ト称ス(中略)
此ノ拝殿、昔時ハ毎年御茶壷一宿ノ処ナル故ニ修造料トシテ、金十両宛二度拝領セリ、慶安五年六月、立札ノ写一御茶壷毎年当杜拝殿御一宿候間、拝殿並御番所柱、板壁等落書一切仕ル間敷候、総而穢ラハ敷者並ニ乞食非人等昼夜不可集リ居候事トアリ、其ノ後御茶壷通行相停リ、今ハ形バカリノ拝殿ナリ、見聞雑事ニ御茶壷通行ノ停マリシハ、元禄三年ナリト見エタリ(後略)とある。
御茶壷道中の各宿では、道路を清掃し、環境を整え、百数十人の人足と数十匹の馬を用意し送迎したのである例年六月初旬から下旬が、本町付近の通過時期であり、農繁期と重なった。御茶壷に限らず代官所役人の視察である御巡見もやっかいなものの一つである。
 
「御巡見二付申渡御請印帳』
一、土橋等取繕可申事
一、木之枝、竹薮等往還江出張之分者不障様切払可申事
一、往還筋垣根繕直シ塗肇屏等破損所取繕可申事
一、民家見世先葦鮭草履等つるし置申間敷、下ニ置可申事
一、通行之節送り迎え役パ其外御駕篭之右之方江平伏可致事
一、壱里豚虻拾弐町目、弐拾四町目建札可致事
一、休泊請候宿麻上下着用村内断案内可仕事
一、番小屋三ケ所村役人詰合不寝之番時序廻り火之元心附之事
一、休泊所之三宝三ツ御朱印御証文可載三宝壱ツ置可申事
(中略)
一、不用物置雪隠等取払可申候用候分ハ取繕可申事
一、大巡見御廻術之節御休泊所ニ耐馬撃場取建置可申事
「休泊之記」
一、上ノ間襖替可致事
一、小用所等新規ニ可仕事
一、大便所籾柄入可申事
一、手水鉢、手拭、風呂桶
一、手水たらい心附可申事
(後略)
天保八年酉十二月(白州町役場蔵)
 
右の資料のように通行路の清掃から垣根や屏の修理、不寝番など事前の準備、見廻りの場合の案内人は麻上下着用・一般の村人は右側へ平伏することまで指示されている。