武川町の集落 山高(やまたか)歴史と成り立ち『武川村誌』一部加筆

武川町の集落 山高(やまたか)歴史と成り立ち『武川村誌』一部加筆
 
 大武川の河成段丘両の高所に立地した山高は、その地名の由来を尋ねる必要はあるまい。 段丘面と大武川沖積原の比高は五〇メートルを超え、高燥で展望が利くとあれば、中世豪族の居館を構えるのにふさわしい地点に相違ない。
≪甲斐守護一条源八時信≫
 はたして十四世紀初頭、甲斐守護一条源八時信は、嫡男信方をこの地に封じたのである。信方ははじめ甲斐太郎、任官して甲斐守と称した。
≪山高氏≫
延文元年(一三五六)四月五日卒去した。信方が武川衆の草分けで、山高に住んだが、「一蓮寺々領目録」 によれば信方自身は生涯一条を名のり、山高は第三者の敬称らしい。したがって山高殿と呼んだものであろう。
 信方の居館については『甲斐国志』に、
「山高氏ノ宅址、今ニ殿屋布卜云フ。産神社地ノ内へ入ル。峡中絶行ニ山高ノ塁処、横平卜名ヅク、トアリ。」
 と記している。これによれば山高氏の居館は、産神幸燈宮の境内に一部は入り込んでいた、という。山高の集落形態を見るに、道路は条里整然としており、山高殿の居館を中心に、家の子(山高氏一族)・郎党(山高氏と血縁のない従臣) の屋敷が設けられ、小規模ながら計画集落であったらしい。
≪蔦木氏・実相寺・神代桜
 『甲斐国志』 のもう一つの記事には、
実相寺は、「永禄中、蔦木越前守大津ヨリ今ノ地ニ移ス、モト山高五郎左衛門ノ宅跡ニテ、其ノ鎮守稲荷並ビニ老木ノ柳桜アリ。」
 とある。この記述について理解に苫しむ点がある。『寛政重修諸家譜』所収、蔦木家譜によれば、蔦木越前守盛之は、初め知見守越前守といい、これを蔦木と改めたのは大坂夏の陣直後の元和元年五月、京都二条城に殊勲者知見寺盛之を引見した家康が、以後苗字を蔦木と改めるように命じた。したがって「永禄中、蔦木越前守」はいなかった筈である。
 また山高五郎左衛門は、孫兵衛親重の二男で、三左衛門信俊の弟である。親重が別家を創立し、信保は別家をついで山高に土着した。これは永禄年間よりずっと後のことであるから、永禄年間、知見寺越前守が大津から実相寺を移した山高氏の宅跡は、五郎左衛門信保のではなく、その数代以前の山高以前のものでなければならない。山高氏歴代の官途称号は、
初代が甲斐太郎信方、
二代が太郎信武、
四代が太郎左衛門尉信行、
六代が太郎兵衛尉景信、
七代が孫兵衛尉信基、
八代石見寸基春、
九代越後守信之
などであるが、これらの人々のほか、永禄以前に五郎左衛門尉を名のった某がいたことも考えられるのである。
≪実相寺・神代桜
 山高氏は武田一条氏の嫡流である。思うに、初期の山高氏一族の五郎左衝門尉という者が神代桜の近傍に方八三間の邸宅を構えて鎮守稲荷社を祀ったが、故あって早く亡び宅跡は空閑地となっていた。そこへ知見寺越前守が菩捏所実相寺を大津から移したのではないか。
 後年、山高信直の子親重が別家を創立し、これを継がせた二男信保に五郎左衛門を名のらせたのは、おそらく上記のような事情があったのに由るのではあるまいか。