武川町の集落 三吹(みふき)歴史と成り立ち『武川村誌』一部加筆

武川町の集落 三吹(みふき)歴史と成り立ち『武川村誌』一部加筆
 
 七里岩に沿って流下する釜無川と、その左支流大深択川が合流する地点の下流近く、同じく釜無川右支流尾白川(名水百選)が合流する、これら三川がほとんど同地点で合流するというので、その地点付近を三吹と呼んだという。『甲斐国志』 に、「村ノ北ニ尾白河四ヨリ出ヅ、深沢州・釜無河卜各々会注スル処ナリ、故ニ村名ヲ獲ルナルベシ。」と述べている。
 「吹く」、という言葉には、水などが勢いよく湧き出る、という意味がある (『広辞苑』〕。
≪花水坂≫
 『甲斐国志』はまたいう、「花水坂。日野ヨリ台ケ原へ出ズル十数町の険坂ナリ(或ハ日野坂トイウ)白砂山ノ麓ニテ、釜無川・尾白川・大深沢、三水会同ノ処ヲ花水卜云フ、旧時ハ岩上ニ亭宇ヲ構へ、山桜数株ヲ植ユ、花時爛漫トシテ水ニ映ズ、因ッテ花水ノ名アリトナン。」と。
 これらの記述によれば、三吹と花水とは、いずれも釜無川・大深川・尾白川の三川会同の地点を指していうもののようである。
 三吹は中世、三吹郷と呼ばれた。天正十八年正月二十七日に徳川家三奉行(成瀬吉右御門尉・大久保十兵衛尉長安・日下部兵右衛門定好)連署の知行書立てに、「米主計渡一、弐百弐拾四俵壱斗弐升八合 三吹郷」とある。当時三吹郷は武川衆米倉主計助忠継の采地であった。この年八月、徳川家康の関東移封により、武川衆も随従して武州へ移った。
≪知見寺氏、蔦木氏に≫
 関ケ原の役に大勝して甲州を回復した家康は、慶長検地を実施した。
『慶長古高帳』によれば、三吹村高二九三石余の内、蔵人地一六四石、知見寺越前守知行一二九石、とある。知見寺越前守は大坂夏の陣に従軍して殊勲をヲ立て、元和元年五月、京都二条城において家康直々の沙汰により、知見寺を蔦木と改めた。
≪三吹村は旗本秩父彦兵衛重能の采地≫
 寛永十二年(一六三五)、三吹村は旗本秩父彦兵衛重能の采地となり、重能は二〇〇石を知行した。『秩父家譜』によれば、「彦兵衛重能の母は武田左馬助の
娘である。寛永十九年三代将軍家光に仕え、十二月十日甲斐国武川のうちにおいて二〇〇右の采地を賜わり、大番となった。のち子孫に至り、甲斐の采地を上総国にうつされた。明暦元年五月二日、五五歳で没した。」とある。
≪石高の変遷≫
 寛文十二年検地の石高は六一三石余、宝暦、村高六五二石、文化三年、村高六五七石三斗四升二合、とある。慶長の古高が三〇〇石に満たなかったのに、寛文の際には六〇〇右を超え、以後六〇〇石台を維持している。その理由は、釜無、尾白、大武三川に挟まれて、常習水解地であったところ、治水工事により水害を除くとともに流失田畑の復旧、荒蕪地の開拓が進められたからであろう。『甲斐国志』尾白川の記事のうちに、
≪堅牢な堤≫
「此ノ川落合ノ処へ逸見筋ノ深沢川北ヨリ来会ス、其ノ下、三吹村ニテ大石ヲ畳ミテ堤ヲ作ル、長サ百十歩、基址ノ広サ五歩、上面二歩半、其ノ堅牢本州防河ノ第一ナリト云フ。」とある。本州防河の第一といえば、その堅牢さは信玄堤に対比できよう。
 三吹の歴史は村人と三川の戦いの歴史であった。上三吹の集落形態は、農村には珍しく街村型を示している。集落の北端に神明神社が祀られ、その南方に整然とした街村が続くのは、水害を防ぐのに最適で、村人の智恵である。
 新屋敷は、水害被災者の退避集落であった。近代に入っても、明治三
十一年と昭和三十四年と、二度の大水害は住民の記憶に鮮やかである。
≪武川半紙≫
 しかし、三吹の先人が清列な釜無川の水と山野に豊かな楮・桑を用いて強靭な武川半紙を創作したことは、特筆すべきであろう。
 三吹の区民の発展性は、水害の試練によって涵養されたものであろうか。下三吹の住民は大武川の流路移動により牧原分と混同され易い、飛地のようになった大武川右岸の下三吹分の河川敷に進出し、新開地と呼ばれる武川村第一の繁華街をつくり挙げた。その旺盛な生活力と創造力には敬意を捧げたい。
≪萬休院 馬場民部≫
 下三吹の西方、中山の中腹にある曹洞宗萬休院には、同院開其馬場民部の手植と伝えられる老松があり国指天然記念物となっている。(枯れて処分、現在は)三代目の舞鶴の松があり、旧松の一部は在りし日の面影を偲ぶように展示されている。