武川町の集落 牧原(まきのはら)『武川村誌』一部加筆

 武川町の集落 牧原(まきのはら)武川村誌』一部加筆
≪真衣郷・真衣牧≫
 釜無川の右支流大武川の扇状地上に立地する。『和名抄』に見える真衣郷、『延喜式』真衣野牧のそれぞれ中心的遺跡と推定されている。
 牧原の地は、はじめ牧野原と記された。この地は八世紀以来、官牧(勅旨牧・御牧)真衣野牧が置かれたころ、牧地を管印すべき庁所が置かれた所と考えられる。それは其衣野牧を跡づけるために必要な資料と考えられる牧野原の地名資料が、この地だけに存在するからである。
≪駒牽≫
 真衣野牧は、柏前牧と合わせて年一回二〇疋の駒を真上した。駒牽(天皇ご出席 こまびき)の日は八月七日であった。真衣牧の駒牽の初見は天慶元年(九三八)八月七日で、以後寛治元年(一〇八七)八月七日までの約一世紀半にわたり、この牧の駒牽の記事が諸書に散見する。天慶四年には平将門の乱の影響で大いに遅れ、十一月二日に行われた。それ以後は遅れるのが通例となり、年を越す場合もあった。
≪武河御牧≫
なお『吾妻鏡』の建久五年三月十三日の武河御牧は、真衣野牧と考える。(この箇所内容は一考を要する。それは武河御牧が表れるのはこの『吾妻鏡』一書のみの記載事項)
 官牧真衣野牧は律令制の崩壊とともに消滅した。それ以後は甲斐源氏一条氏の私牧武川牧となった。武川私牧の中心も真衣野牧当町同様、牧野原にあったことは言うまでもない。牧野原の地は、北に大武川を、東に釜無川を、南に小武川をめぐらして馬の放牧に適しかつ要害の地である。武田氏の祖信義の五世の孫、一条源八晴信は、八男の八郎自家を牧野原の地に封じた。貞家は牧野原八郎と号し、武川衆牧野原(牧原とも)氏の祖となった。
 貞家は牧野原の地に八幡宮を勧請し、一条氏同族の武運長久と牧野原氏繁栄を祈願した。(この記載内容は一考を要する)
≪武川衆≫
 武川衆は山絹・白須・青木・牧野原・柳沢・教来石・折井・山寺の同族がよく親和した。
 永亨五年(一四三三)四月、甲斐国中は守護武田家を支持する武田右馬助信長を首領とし、穂坂郷(韮崎市)日之城を拠点とする日一揆と、守護代跡部氏・逸見中務丞有直らを肯領とする輪宝一揆が荒川で激突し、日一揆側が敗れて武川衆の牧野原・柳沢・山寺らの詔将が討死した。
 これより以後、牧野原氏の勢力は弱まるが、その家は武田時代を通じて存続したことが、『寛政重修諸家譜』によって知ることができる。
 江戸初期に牧原は知見寺氏の采地であった。