2013-07-01から1ヶ月間の記事一覧

馬場美濃守の系譜〔信房の二男、善五兵衛信頼(隼人)「姓代家系大辞典」〕

馬場美濃守の系譜〔信房の二男、善五兵衛信頼(隼人)「姓代家系大辞典」〕 二男善五兵衛信頼(隼人)信房の嗣となり、甲斐を去り和泉国淡輪に任す。 その子が駿河信久也、又巨摩、山梨、八代の諸郡に任し、甲府朝気村の馬場氏は美濃守後 裔と称す。

馬場美濃守の系譜〔信房の子 馬場美濃守信春 昌房「姓代家系大辞典」〕

馬場美濃守の系譜〔信房の子 馬場美濃守信春 昌房「姓代家系大辞典」〕 その子民部信春は一に昌房と称す、 天正の初めより深志城(松本城)を守り、 天正十年三月織田の兵に攻められ甲斐に帰りて死せし如し。 一族江戸幕臣となり、寛改系譜此の流五家を収む…

馬場美濃守の系譜〔馬場美濃守信房「姓代家系大辞典」〕

馬場美濃守の系譜〔馬場美濃守信房「姓代家系大辞典」〕 清和源氏の後裔甲甲斐国教釆石に移りて教来石(敬禅寺)氏を称す、 駿河守信明に至り武田信重の婿となり馬場に改む。 その男遠江守信保、其の男美濃守信房なり。 信房は初名景政また氏勝、民部少輔と…

馬場美濃守の系譜〔信成の子、馬場信正 「寛政重修家譜」〕

馬場美濃守の系譜〔信成の子、馬場信正 「寛政重修家譜」〕 信正は次郎兵衛 (また八郎左衛門)といい 家忠・家光に仕え下総国宮川村に百六十俵の釆地を賜う。 信正-信政(廷宝~元禄)―信通(元禄~享保)―信周(享保~宝暦)-信方(宝暦)

馬場美濃守の系譜〔馬場信成(民部右衛門尉)〕「寛政重修諸家譜」

馬場美濃守の系譜〔馬場信成(民部右衛門尉)〕「寛政重修諸家譜」 武田勝頼に仕え根小屋(現在の台ケ原)に任す。 天正十年勝板没落ののち東照宮甲斐国にいらせたまふ時、武川の諸士とともに御磨下に 属し、 北条氏直若神子に出張するとき相謀りて小沼の小…

白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信春(信房が正しい)「寛政重修諸家譜」(『白州町誌』)

白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信春(信房が正しい)「寛政重修諸家譜」(『白州町誌』) 馬場氏の系譜 「寛政重修諸家譜」に清和源氏義光流武田支流とあり、「姓氏家系大辞典」(太田亮著、角川書店)にも清和源氏の後裔としている。前書によれば、次郎兵衛…

白州町・武川町の歴史・史跡〔柳沢安忠が柳沢の父 柳沢信俊、吉保の祖父〕

白州町・武川町の歴史・史跡〔柳沢安忠が柳沢の父 柳沢信俊、吉保の祖父〕 この柳沢信俊が吉保の祖父である。柳沢兵部丞信俊は小牧の戦、信州真田との戦などに戦績をあげ、ついで小田原の陣にも参加している。のち家康の関東移封にともなって、他の武川衆と…

白州町・武川町の歴史・史跡〔柳沢氏と横手氏〕

白州町・武川町の歴史・史跡〔柳沢氏と横手氏〕 柳沢氏については武田時信の子時光が青木氏を称し、その五代安遠のあと、長男義虎が青木氏を継ぎ、次男信興が柳沢に任して柳沢氏の祖となった。その三代信兼が武田勝頼に仕えて、天正八年十月、上州膳之城攻め…

白州町の歴史・史跡〔武川衆、武蔵国(埼玉県)へ移封〕

白州町の歴史・史跡〔武川衆、武蔵国(埼玉県)へ移封〕 武川衆は天正二十年(1592)、家康関東移封とともに旗本衆として武蔵国に知行地を与えられて移った。 慶長八年(1603)家康は征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いて、第九子徳川義直を甲斐二…

白州町の歴史・史跡〔武田没後の武川衆 家康家臣へ〕

白州町の歴史・史跡〔武田没後の武川衆 家康家臣へ〕 天正十年三月武田氏が滅亡し、六月本能寺の変によって織田信長が最後を遂げて天下の形勢は一変する。そして甲州は北条と徳川の争奪の地となる。徳川家康は武田の遺臣を抱えようと、かねてから武川衆にも…

武川衆 信州小県郡塩田下之郷の信濃国二之宮生島足島神社社前において、 武田信玄に誓詞

武川衆 信州小県郡塩田下之郷の信濃国二之宮生島足島神社社前において、 武田信玄に誓詞 永禄四年(1561)九月の川中島合戦に武川衆は副将武田左馬助信繁の陣に加わって激烈な戦いをして越軍を防いだ。 永禄十年(1567)八月、武田氏に属する甲・信…

白州町の歴史・史跡 武川衆の動向 一条源時信が武川衆の祖

白州町の歴史・史跡 武川衆の動向 一条源時信が武川衆の祖 一条忠頼が頼朝に謀殺されたあと、甥の武田六郎信長が一条氏の名跡をついで一条氏を再興する。信長は弓馬の道にたけ、質実勇武な典型的武人であったのみでなく、神仏に信仰厚く晩年大般若経六〇〇巻…

白州町の歴史・史跡 武川衆の動向「甲斐国志」(『白州町誌』)一部加筆

白州町の歴史・史跡 武川衆の動向「甲斐国志」(『白州町誌』)一部加筆 武田石和五郎信光ノ末男六郎信長卜云フ者忠頼ノ家迹ヲ継ギテ一条氏卜号ス、 其子八郎信継「東鑑」ニモ見ユタリ、 信継ノ男時信、一条源八卜称ス、甲斐ノ守護職ニ任ゼラル。 男子十数輩…

武川町フレンドパークむかわ パンフレット

甲府市パンフレット 信玄のまち

甲斐古代が見える年表○天武1年(672)7月2日【『日本書記』】「甲斐の勇者関連」

甲斐古代が見える年表○天武1年(672)7月2日【『日本書記』】「甲斐の勇者関連」 …紀臣阿閑麻呂らに数万の兵を率いさせ、伊勢の大山より倭に向かわせる。 ○天武1年(672)7月4日【『日本書記』…甲斐の勇者 …近江方に破れた吹負は、僅か一人二人…

甲斐古代が見える年表○推古6年(598)4月【『扶桑略記』】聖徳太子が良馬を求めて、甲斐烏駒を得る。

甲斐古代が見える年表○推古6年(598)4月【『扶桑略記』】聖徳太子が良馬を求めて、甲斐烏駒を得る。 …太子命左右、求善馬竝符諸国令貢、甲斐国貢、烏駒数百匹太子指此馬曰是神馬也、令舎人調使麿飼養。云々 ○推古6年(598)9月【『一代要記』】 ……

甲斐古代が見える年表○推古6年(598)4月【『扶桑略記』】

甲斐古代が見える年表○推古6年(598)4月【『扶桑略記』】 …聖徳太子が良馬を求めて、甲斐烏駒を得る。 …太子命左右、求善馬竝符諸国令貢、甲斐国貢、烏駒数百匹太子指此馬曰是神馬也、令舎人調使麿飼養。云々

甲斐古代が見える年表○雄略13年(469)9月【『日本書記』】

甲斐古代が見える年表○雄略13年(469)9月【『日本書記』】 …木工猪名部眞根の死罪を赦す勅使が甲斐の黒駒に騎り馳せて刑 場に至り眞根の命を助ける。 ……ぬばたまの甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒… 聖徳太子と富士山それに甲斐の黒駒 - サブ…

甲斐武田の滅亡 武田勝頼の最後とその消息の真実

《甲斐武田滅亡》 1582(天正10年) 2-2信濃木曾義昌,武田勝頼に背いて織田信長に通ず。この日,勝頼,諏訪上原に出陣。 2-3信長,甲斐侵入の進路を定め,諸将に割当てる。 2-16勝頼の将今福昌和,鳥居峠に織田の兵と戦って敗北。 3-1江尻城将穴山信君,家康に誘わ…

武田神社周辺のご案内 かぶとやパンフレット

下呂温泉と武川家 山梨県北杜市武川の関係

集中豪雨 土砂に埋まる桧植林地

鹿に襲われた植林ヒノキ

植林地を襲う土砂崩れ

大雨 土砂崩れ 北杜市

大雨 土砂崩れ現場

林道の土砂崩れ

土砂崩れ現場

大武川上流