関東大震災記(山梨の記録一部掲載) 貴重な記録

関東大震災記(山梨の記録一部掲載) 貴重な記録

村松昌氏著『伊那』1985,6月号(一部加筆)

 

私は偶然、大正十二年九月一日、現在の太田区大森で和洋紙販売を営んでいた今村勝氏の妻が姉で、女中さんに行く娘を連れて自宅を午前四時頃出発した。堀割坂で猛烈な其処へ朝夕立に出逢い閉口したが忽ち止み飯田駅午前六時頃発の一番列車に乗車した。

当時は急行も無く、各駅停車で辰野で乗り換え、座席も取れ、先ずは一安心した。早朝の起麻で疲れたのか、

「上京の上は半月位姉や木挽町の次兄宅を宿にして遊び廻わり先ず浅草六区の活動写真、寄席の落語、芝浦球場での秋期三田稲門戦見学等、それに彼の美味の天井を……」

とウツラウツラと呑気な事を考え乍ら居眠りしていた。

「長坂駅」

やがて中央線長坂駅に到着するや駅員や駅前商店の人々が血相を変えて飛び出している。ホームは崩壊し人々が右往左往しているので初めて大地震があったのだと大騒ぎとなった。時将に十一時五十八分であった。

甲府駅塩山駅

其の後、汽車は徐行を続け甲府駅で暫らく停車し塩山駅迄進行したが、情報に依れば笹子トンネルが壊滅し、汽車乗客共に埋没し、これ以上、先方へは行けないとの事で止むを得ず下車、駅前通りの宿屋へ行ったが、泊まれるどころか宿屋の人々は駅前広場ヘテントを張り逃げ込んでいる有様。致仕方なく既に夕闇み迫ったので、夕食代わりに食パン、ローソク等を買い求め野宿を覚悟したが、駅の厚意で駐車中の空貨物に入り一夜をローソクの灯で明かした。時折、大小の余震が来襲し貨物がガタンガタンと揺れたり物凄い地鳴りや無気味な突風が吹き眠れる様なものではなかった。

遥か東方の空は真赤で東京は大火災、入京は不可能と覚悟した。翌九月二日、駅長の東海道儀は静岡迄僅かに信越線のみ川口駅迄行けるとの報告で直ちに反転した。

辰野駅で娘さんに-時帰宅せよと下車させ、八幡の満寿徳店へも事情を話して呉れと頼み、私は松本駅で途中下車し入京には食糧持参第一と駅弁拾個とパンを購入した。松本市内には腰の鈴を鳴らした号外売りが、東京は大火、殆ど全滅、死者多数、暴徒蜂起・戒厳令布告、となっていた。再び乗車したが、車中は出張等で、西に居たのが関乗大震災で実家の安否を案じ、急速帰京の人々で超満員、身動きも出来ず弁当を抱きかかえたまま立ちん坊で、九月三日未明、川口駅に下車した。

途中、高崎とか大宮とかの大駅には下り汽車に焼け出された着のみ着のままの市民が避難するのか、これ又超満員だ。停車し汽車の交換の一寸の時間に我々の汽車の客は一斉に窓際に身体を半分乗り出して下り汽車の客に大声で「日本橋」「浅草は」「品川は」と祈るような目差しで尋ねたが、「全滅だ」「火の海だ」との答えに偶然とした。又各駅ホームには既に朝鮮人狩の指令に依るのか在郷軍人及び自警団員が武器を片手に乗り込んで来た。 

顔型や日本語の発音の変な奴を車外に曳きずり出し、何処かへ連行するのを五、六ヶ所で見たが肌寒くなり無気味な情景であった。

 私は東京へは二、三回中央線で入京しているが信越線では初めてで不案内だ。まだ薄暗いので、とにかく乗客の行く方へついて行ったが、何時かバラバラになってしまった。荒川の鉄橋が破壊されているので渡舟で対岸の堤防上に出ると、突如「止まれ」と数人の銃着剣、あご紐姿の兵に尋問された。入京の目的を答えて許可を得たが、本当に胸がドキドキして戒鞍令とは怖いものだと知った。鉄路を頼りに日暮里鴬谷を通る。途中、要所には歩哨の監視人、被災者が絶えることもなく続くのに逢うのだった。一人の知人、友人も無く入京することに不安と心細さを感じ帰郷をと考えたことも再三あったが、遂に上野へ到着した。朝の八時頃だった。

既に一日正午頃から二日終日燃えたのだから、三日朝なら一応鎮火していると考えて上野広小路へ出たが、松坂屋百貨店周辺は猛烈な火烙に包まれ延焼中で人影なく放棄されたままであった。

私の行先幹線大道路は電線が焼け落ち蜘蛛の糸の様に垂れ下がり、電車、大八荷車が列をつくって残骸をさらしていた。

其の中を鼻口を手拭いで塞ぎ煙を除け乍ら踏み越え飛び越え右側を通ったり左側に変ったり大廻りして日本橋辺りに来た。異様な悪臭が鼻を突くので川を見ると逃げ遅れた焼死者で哀れ無残な姿には止め処なく涙が出た。道路の両側彼の柳の銀座通りも礫の河原同然、焼け瓦、焼けトタンの連続で、金庫が黒焦げで立っていたが佗しい物だった。次兄の住宅、京橋木挽町も築地も、焼け野原で無事に家族が逃げて呉れたことを念じつつ歩き続けた。この幹線道路は流石に人通りが多く板やボール紙に移転先は何処とか又は不明の家族名を書いたのを高く揚げ往来していたが不思議なことに巡査や軍人の姿がなく、全くの無警察状態で、彼の有名な天賞堂とか村松貴金属店の焼け跡には人相の悪い浮浪人が黒山の様になって何か掘ったり探していた。午後二時頃、夕立が来たが逃げ場所がないので焼けトタンを頭上に乗せ雨を除けつつ歩いた。通行人に大森はと尋ねたが、皆自分の事で頭が一杯で大津波にやられてあと形もないとか、朝鮮人に焼打されたとかの返事のみだ。私も次兄の家が焼失した事は判明しているので頼りは姉の家のみで、万一津波で流出したなら直ぐ又上野迄引返し帰郷せねばならないので、松本駅での弁当は無事だと判明する迄、一個も食べられないと覚悟した。品川辺り迄来た頃は家屋も流失せず店舗もあるし大森も大丈夫と聞き、安心したか元気が急に出だした。

 大井、大森の海岸通り、松並木や数多い砂風呂料亭前を過ぎた。停車場通りへ出た時、二、三人の学生か青年が頭に鉢巻、肩には白地布に九州男子と書いた簿を斜に「日本男子よ、奮起せよ、朝鮮人を直ちに抹殺せよ」と大声でアジ演説をやっており、手には日本刀の抜身を高くかざしている有様は勇ましい限りであった。

午後四時頃なので太陽は頭上に輝いて白刃はピカピカ光り、ふと時代劇の京洛の巻かと錯覚を起こす。殺気立った有様で暫くの間唖然とした。

 間もなく姉宅へ辿り着き家族の無事を喜び安心したが、屋根の瓦は大半落ち、二階の壁も散乱し大変なものだ。近所の家も大同小異の被害であった。先ず松本駅で購入した弁当を食べ様と開けた所、みな連日の猛暑で腐敗していて一個も食べずじまいになった。又座敷の中央に風呂敷包みが置いてあるので何だと聞いたら地震もまだ大きいのが来るし、川崎市の工事場に朝鮮人が三千人程居て、何時襲撃して来るかもわからない。又は放火されたらお前は一番に風呂敷包み六個の内持てるだけ持って逃げて呉れと言われた。そんな馬鹿なことと思ったが夜になって実感した。電気・ガスが駄目なのでローソクで居た。余震の強いのが来て真っ暗闇の表通りへ其の度に飛び出す。

 其の内に先ず警鐘が乱打され自警団の人々が彼方だ、此方だと駈け廻り、今、朝鮮人が路地へ逃げたとか、白衣の人間が井戸を覗いていたとかで、槍、銃を持ち、血相変えて探索する。気のせいか発砲の音がする。其れに拍車を掛ける様に横須賀の巡洋艦が二、三隻東京湾に錨を下して一〇時頃、大森の沖の方面から大森、大井、品川方面や房総方へ海岸沿いに探照燈をグルグル廻転さして警戒する。まるで戦争騒ぎで、信州の山の中から来た田舎者の私は見ること聞くこと驚くことばかり。今夜はゆっくり安眠出来ると敵ったが、臥床どころではなかった。悪夢の様な一夜を大森名物蚊に刺され乍ら、うつらうつらで夜が明け表通りの店先で焜炉と釜で米を焚いた。水は附近の井戸の尊い水だ。

 翌四日から店主今村氏に代わり私が自警団員となり竹槍を持ち、通行人を監視した。昼間は東京、横浜の間なので行方不明、焼死の安否、転居先探し等で炎天下往来は混雑を極めた。立ちん棒での疲れが出ると交替で机に腰掛けて配給の玄米を持参した一升瓶へ入れ棒でつついて白米を製造していたが流石に夜間になると人の往来は少なくなる。

 四日、五日、六日位、毎晩同じ様に警鐘の乱打怒声を張りあげ乍ら馳駆する自警団眉、軍艦の探照燈は蟻一匹も海岸を通さじと物凄く照す。又伝令で朝鮮人が愈々川崎を出て蒲田迄来襲したから必ず大森の女、子供は室内に居れ、其れに社会主義者が先頭になり彼等を煽動鼓舞しているとか、町中が懐恰たる気分になる。後日、判明した事だが流言飛語の恐ろしさ、又何と馬鹿馬鹿しい事が誠らしく人の口から耳へ伝わるのか。結局、私は一人の朝鮮人社会主義者も見なかった。唯軍人や巡査も何処にいたのか全くの無警察で大衆が不安の余りデマを信頼したのだ。

 其の頃より上空を飛行機が頻繁に飛び交うだけで交通機関は杜絶していたが、ぼつぼつ情報が流れ、焼死者が本所区被服廠跡で何万人、吉原遊廓で娼婦が他の中で死に、浅草公園内にある名物十二階の東京一の高い建物が三分の一位になった等知った。又人相の悪い奴で四辺を見渡し乍ら惨死体や黒焦げ焼死者の写真を買わないかと市民の悲しみを金儲けの種に売り歩いている不届き者もいた。

 又大森海岸へ十日頃迄、早朝に朝鮮人の惨殺死体が十数人位裸体で両手を銅線で結ばれたまま首を斬られ、その首が付いたまま波打際にふわふわ浮かんで残暑で腐敗して悪臭を放ち正視に堪えぬ日々が続いた。

 九月八日に初めて長野県警察の提灯を持った巡査や八幡の実家の長兄が東京方の親戚の震災見舞に来たし、電燈、水道も復旧した。治安も完了したので自警団も解散となった。私は月末迄、姉宅で商売を手伝い、上京後の楽しき計画も震災で吹き飛んで空しく帰郷した。家に帰って親父に逃げて来る人ばかりなのに辰野駅を通り過ぎ信越線で入京するとは何事だと目玉の飛び出る程怒られた。無理のない事で村役場の調査では私はトンネル内で死んだと噂されていたとの事だった。又京橋木挽町は至る所の橋が焼け落ちてしかたなく次兄は築地から家族一同東京湾を舟で逃げ千葉に上陸し知人の家へ疎開した事が、五日、大森今村宅へ見舞に来て始めて判明し、兄弟三人無事で安堵した。

 想えば明治年代より繁栄を誇った東京も瞬時の大震災で壊滅的大打撃を蒙ったが名市長後藤新平に依り復興し世界有数の大都会になった。東京市民を鼓舞激励する為、演歌師が巷の一隅で唄った想い出の流行歌、復興節を私が帰宅後、八幡青年会々合で披露し人気を博した。