甲斐の行基伝説 甲斐 縄文時代最大級の天神堂遺跡

甲斐の行基伝説

 

(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 一方、湖水の水をとりのぞいたのは、僧の行基であるという伝説もある。元正天皇の養老年間(七一七~二四)に行基甲斐国に遊行したとき、南山を切りひらいて水を富士川に流したので、国びとがその徳を感謝し、禹王の徳になぞらえて禹の瀬と命名したという。しかしこれらは、人のあらわれない地質時代甲府盆地湖水説を、歴史時代のできごとととりちがえた伝説というべきであろう。

 

甲斐 縄文時代最大級の天神堂遺跡

 

(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 氷河期と問氷期の交代がくりかえされて人類が出現し、活動をはじめたのは、洪積世のことである。この期間の動植物の存在が、山梨県下でもつぎつぎに確認されてきている。白根山や赤石山系には、氷河の侵蝕で形成されたカール(圏谷)地彩がみられ、桂川富士川水系等の河谷や甲府盆地周縁地域には、ひろく洪積層の堆積がみられる。山梨市八幡南からは、全国各地で発見されている洪積世後期の象類であるイソド系ナウマン象の歯や骨片が、洪積層のなかから発見されている。

 洪積世人類については、昭和六年(一九三一)に兵庫県明石で腰骨の化石が発見され、その後、愛知県牛川、静岡県三ケ日・浜北などでも化石人骨が発見されている。まだ土器は製作せず、打製石器を使用するだけの旧石器文化は、先土器文化または前縄文文化と名づけられている。まだ明確にされていないが、この時代の末期につくられた尖頭石器や細石器は、縄文早期の石器と製作手法が似ているといわれている。昭和二四年群馬県岩宿の関東ローム層から打製石器が発見されてから、日本の先土器遺跡の存在もやや明らかになり、全国各地で調査研究がすすめられてきた。

山梨県内でも、昭和二八年に東八代郡米倉山(中道町)で礫核器、剥片石器、石刃など先土器時代の遺物が発見されて、県下各地で発掘調査がはじめられた。四一年に大月市宮谷の桂川中位段丘から宮谷石器とよばれる細石器、荒割り敲打石器が確認された。四三年には豊當村浅利から石刃などが発掘され、つづいて甲府盆地底部の上石田町からも石刃が発掘され、山梨県の先土器遺跡がつぎつぎと紹介されている。

 翌四四年に富士川流域の富沢町万沢小学校校庭で、二一〇〇平方メートルの地域にわたり上下二層から石器が発掘された天神堂遺跡は、本格的な先土器時代の遺跡といわれ、三〇〇におよぶ遺物の数や規模などから、全国的にみても最大級に近いものといわれる。斧形石器、縦長剥片、石核、石刃、ナイフ形石器など各種石器が出土し、黒耀石も多い。

 黒耀石は県下各地で発掘されているが、山梨県ではその産地が見あたらず、長野県の和田峠に産出されるところから、すでに先土器時代に交換経済が発達していたことが推測される。その他、大月市の袴着遺跡や中道町下向山遺跡などが先土器遺跡として有名である。

 

なまよみの甲斐の夜明け

山あいの国 山梨県

 

(『郷土史事典』 風土と歴史と人 山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 山梨県は、背の甲斐一国をそのまま境域としてなりたっていて、甲斐の国名が峡に由来しているように、どちらをむいても山また山である。北部から東部へかけては関東山地で、金峰山国師岳・甲武信番・雲取山などは、いずれも二〇〇〇メートルをこえており、八ケ岳から南へつらなる赤石山脈(南アルプス)には、駒ケ岳・仙丈ケ岳.北岳(白根山)・間ノ岳農鳥岳など三〇〇〇メートル級の峻険がひしめいている。また南側は、富士山をはさんで丹沢山地天守山地がふさいでいるので、さながら天然の国境をめぐらしたかの観がある。

 全体に起伏が複雑な地形から、気候は地域差が大きいが一般に内陸性である。甲府盆地の夏はとくに暑く、ほとんど連日三〇度をこえる半面、山地の冬には積雪期間が三カ月以上のところもある。雨量は比較的少ないが、局地的豪雨や台風におそわれると、たちまち洪水の難にあうことがめずらし<ない。

 県土の総面積四四六三平方キ日余のうち、ほぼ中央を商北に走る大菩薩連嶺と御坂山地が、大きく地域を東西に分断していて、古来東を郡内とよび、西を国中とよんでいる。国中には肥沃な甲府盆地が中心にあり、北東からの笛吹川と北西からの釜無川が、市川大門付近で合流して富士川になっており、笛吹川以東は東郡(ひがしごおり)、釜無川中流の石岸は西郡、両者の中間地帯は中郡(なかごうり)、富士川両岸は河内と慣称されている。国申には「和名抄」所載の山梨.八代.巨摩の三郡があり、米麦生産のほかに蚕糸業が発達したが、現在は甲府・韮崎・山梨・塩山の四市と、六郡中三十三町十二村があって、全国有数の大果樹地帯を形成している。

 郡内の大部分は、相模川上流の桂川水系の地で、古くは都留一郡だったが、明治の三新法で南北二郡に分れ、戦後は大月.都留・富士吉田の三市が誕生した。平地がとぼしく地味もやせているため、近世以来農業よりも機織など余業への依存度が大きく、江戸市場を中心とする関東地方との結びつきがつよかった。この傾向は基本的には現在も変らないし、風習や方言は国中よりも関東に近い。

 

「武田節」のふる里

 

(『郷土史事典』 風土と歴史と人 山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 甲州の古い民謡で全国的に有名なものはほとんどないが、昭和22年につくられた新民謡「武田節」なら、日本中の誰もが知っている。戦国時代に中部地方の大半を領国におさめ、西上作戦にうって出た武田信玄は、何といっても山梨県人の誇りであり、勇壮なメロディーをもつこの歌には、愛郷の念がみちあふれている。

 江戸後期の農学者佐藤信淵は「農政本論」のなかで、治水事業をはじめ信玄のすぐれた民政を指摘しているが、当時の甲州民の信玄讃仰も、戦略ではなく民政の面においてであった。ながらく天領下におかれた甲州では、人数も少なく任期もみじかい代官所役人になじみがうすく、対立がおこるような場合にしのんだのが、信玄公の古いよき時代だった。農民にとって都合のよい大小切租法・甲州枡・甲州金の三法を、信玄の遺徳とする伝承もここから生れた。しかし、三法が許されたのは国中の三郡だけだったし、郡内の人びとは国中を指して甲州とよび、武田氏の候統とは異る世界を自認していた、郡内の独自性は、偉令制の崩壌に乗じて小山困氏が侵入して以来、国中の甲斐源氏に対抗する政権を築いたところからおこり、信玄の盛時にもその相対的独立を承認せざるを得なかった。したがってそこに三法の伝承が生れる余地は、はじめから存在しなかったのである。

 県都甲府は、武田氏の信虎・信玄・勝頼三代の城下町だったのにはじまる。武田黄の滅亡後、今の甲府駅前に甲府城ができ、城南を中心に新しい城下町が建設されるにあたっては、旧城下町から移転した人びとが草分けとなった。そのなかには武田御家人の子孫で商人にあった者が多く、町年寄や長人には主にこれらの人が任命された。

 

そとからみた県民性

 

(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 きびしい甲斐の風土と歴史環境が、どのような人柄をはぐくんできたかについて、大正初年に刊行された「東山梨郡誌」は、当時の評論家山路愛山の観察を、つぎのように紹介している。

 国民(県民)の性格は一言にしていえば、人生の修羅場なる意義を極めて露骨に体得したるものなり。彼等の租先は痩せ地に育ちたるが故に、生存競争の原理を極めて痛切に感ぜざる能はざりき。彼等は人生を詩歌の如く眺めること能はず。彼等にありては、人情も詩歌も夢幻も、要するに薄き蜘蛛の巣の如きのみ。

 彼等は人生をまだ戦場なりと自覚す。故に奮闘す。(略)往々にして極端なる自已中心主義なり。去れど彼等はこれと共に堅忍不抜なり。直情径行なり。其向ふ所に突進して後を顧みざるなり。故に彼等は財界の雄者として成功す。彼等の理想は勝利なり。他人を圧倒することなり。人生の思想を露骨に語りて、何の掩(おお)ふ所なきなり。

半世紀以上前の評であるが、はたして現在はどうであろうか。謙虚に省察の資としたい一文である。

 

なまよみの甲斐の夜明け 甲府盆地の湖水伝説

 

(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 甲斐国の中心甲府盆地は、太古に大湖水であったという。甲斐の人びとは、湖水の周辺の山腹や丘陵に住んでいて、湖水の水を払い、そのあとを田や畑にしたいと願っていた。そこで人びとは神の助けをかりて、下流の大岩を切りひらいて干拓をなしとげ、現在の甲府盆地が出現したという内容の伝説が、いくつか生み出された。

 これらの伝説は、甲斐国をゆたかな実りのある国にしようとするあこがれと、開発に苦心を重ねた祖先への感謝の気持が生んだものであろう。

 「甲斐国社記寺記」によると、蹴裂明神という神があらわれ、湖水の水の出口をふさいでいた大岩をやぶって富士川へ落したため、分皿地にはじめて人が住めるようになったという。中道町下向山では、この神を向山土本昆古王と名づけ、佐久神社に祀っている。また、石和町河内にも同名の神杜があり、社伝によると、昔甲斐国は海国と称し、一面湖水であったころ、根裂の神は磐裂の神とはかって岩石を蹴裂き、水路を通してから、湖水はしだいに漏洩して浅いものは丘となり、深いものは沼となり、あるいは田畝とたって民人繁殖し、一国?の地となったという。後人はこの二神の徳に感銘して、古く中国の萬王の功にくらべて、かの岩肩を蹴裂きたまえるところを萬の瀬と唱え、人口に伝わり今なお存する処なり、といっている。

 

甲府 穴切神社(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 穴切神杜(甲府市)の社伝には、和銅年問(七〇八~一五)に、時の国司が盆地一帯を占める湖水を千拓しようと、朝廷に奏聞のうえ、大已貴命を勧請し、祈願をこめて千掘に着手した。鰍沢口を切りひらいて富士川に水を落したので広大な田畑が千拓され、甲斐国がみごとな土地をもつ国となった。この神に感謝し、神々を祀り、甲斐国の鎮護の神として崇拝し、穴切神杜と称したとある。「甲斐国志」にも、穴切神杜の三神を祀る由来について、大已貴命と素義鳴尊と少彦名命の三神によって、鰍沢下流の大岩礁を切りひらいて滞水を排出し、干掘をなしとげたので、この神々を祀ってあると記されている。

 

山梨歴史講座 国司等に発せられた令

山梨歴史講座 国司等に発せられた令

詔(みことのり)にみる国司の仕事

  詔(みことのり)・他(『続日本紀』)宇治谷孟氏-現代語訳

 

  1、文武天皇

 

文武天皇 二年( 698)三月  十日 《郡司の選考》

   諸国の国司は、郡司の選考に偏頗があってはいけない。郡司もその職にあるときは、

   必ず法の定め従え。これより以後のことは違背してはならぬ。

   

文武天皇 二年( 698)七月  七日  《奴婢の逃亡》

   官有や私有の奴婢で、民間に逃げかくれたりする者があるのを、届け出ない者があ

   るので、ここに初めて笞(ち・ムチ)の法を定め、奴婢の逃亡中の仕事を弁償させ

   た。その事柄は別式にある。また博奕や賭け事をして、遊び暮らしている者を取り

   締まった。また祖の場所を提供した者も同罪とした。

 

文武天皇 三年( 699)二月二十二日

   天皇難波宮から藤原宮に還られた。

 

文武天皇 三年( 699)五月二十四日

   役の行者小角を伊豆嶋に配流した。

 

文武天皇 三年( 699)十月二十七日

   巡察使を諸国に派遣して、秘法がないか検察させた。

 

文武天皇 四年( 700)十月二十七日 《牛馬を放牧》

   諸国に命じて牧場の地を定め、牛馬を放牧させた。

 

大宝 元年( 701)六月      八日  《官庁の諸務》

   すべての官庁の諸務は、専ら新令(大宝令)に準拠して行なうようにせよ。また国

   司や郡司が大税(田祖)を貯えておくことについては、必ず法規のとおりにせよ。

   若し過失や怠慢があれば、事情に従って処罰せよ。

   この日使者を七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道)に派遣して、

   今後、新令に基づいて政治を行なうことと、また大租が給付される状況を説明し、

   合わせて新しい国印の見本を頒布した。

 

大宝 二年( 702)二月      一日

   初めて大宝律を天下に頒布した。

 

大宝 二年( 702)二月     十九日

   諸国の大租・駅起稲・義倉と兵器の数量を記入した文書を、初めて弁官に送らせた。

 

大宝 二年( 702)二月二十一日

   甲斐国が梓弓を五百張献上したので、それを太宰府の用に充てた。

 

大宝 二年( 702)二月二十八日

   諸国の国司らが初めて正倉の鎰(かぎ)を授けられて任地に戻った。

  

大宝 二年( 702)四月     十三日

   諸国の国造にとめる氏族を指定した。その氏族の名前は『国造記』に詳しく載せて

   ある。

 

大宝 三年( 703)正月      二日  《国司不正の監視》

   諸国の巡視を命じる。東海道は藤原朝臣房前を派遣し、国司の治績を巡視して、冤

   罪を申告させ、不正を正させた。

 

大宝 三年( 703)七月     十三日

   四大寺に金光明経を読誦させた。

 

慶雲 元年( 704)四月      九日  《諸国の国印》

   鍛冶司に命じて諸国の国印を鋳造させた。

 

慶雲 三年( 706)二月二十六日

   甲斐・信濃越中・但馬・土佐などの国の十九神社をはじめて祈年祭に弊帛(みてぐら)を捧げる枠に入れた。

 

慶雲 三年( 706)三月     十四日  《土地利用の適正化》

   高位高官の者たちは、自ら耕作しないかわりに、然るべき棒禄を受けており、棒禄

   のある人々は、人民の農事を妨げることがあってはならぬ。それ故、昔、召伯は農

   民の訴えを聞くのに、その仕事の妨げになってはいけないと、甘棠(かんとう・ア

   マナシ)の木の下に憩い、公休は同じ理由で、自分の園の野菜を抜き捨てて、民の

   野菜を買い求めるようにした。

   この頃、王や公卿・臣下たちが、多く山林を占有して、自分は農耕や播種すること

   なく、きそって貪ることを考え、徒らに土地利用の便宜を妨げている。もし農民で、

   それらの地の柴や草をとる者があると、その道具をとり上げて大いに苦しめている。

   それだけでなく、土地を与えられた土地はわずか一、二畝であるのに、これをより

   どころに峰を越え谷をまたいで、みだりに境界を拡げている。今後このようなこと

   があってはならぬ。ただそれぞれの氏の先祖の墓と、人民の家の周囲に樹木を植え

   て林にした場合、周囲が合わせて二、三十歩ほどであらならば禁止の範囲外とする。

 

慶雲 三年( 706)三月二十六日     《焼印》

   鉄の印(焼印)を摂津・伊勢など二十三カ国に与え、官営の牧場の駒と牛に押印さ

   せた。

 

  2、元明天皇

 

和銅 二年( 709)三月      五日  《蝦夷

   陸奥・越後二国の蝦夷は、野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に害を加える。

   そこで使者を遣わして、遠江駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から

   兵士を徴発し、(略)

 

和銅 二年( 709)五月     二十日  《稲、不作》

   河内・摂津・山背・伊豆・甲斐の五国が、降り続く長雨で稲が損なわれた。

 

和銅 二年( 709)六月     二十日

   諸国に命じて駅起稲帳を提出させた。

 

和銅 二年( 709)九月二十六日      《征夷の役》

   遠江駿河・甲斐・常陸信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後の諸国の兵士、征

   夷の役に五十日以上服した者には、租税負担を一年間免除した。

 

和銅 四年( 711)三月      十日  《遷都》

   初めて平城京(ならのみやこ)に遷都した。

 

和銅 四年( 711)七月      一日  《勤務成績の評定等級》

   律令を整え設けてから年月がすでに久しい。しかし僅かに全体の一・二が行なわれ

   るのみで、全部を施行することができない。これは諸司が怠慢で、職務に忠実でな

   いからである。単に名前を官職の員数に充てはめるだけで、空しく政務をすたれさ

   せてる。もし律令に違反して孝第(勤務成績の評定等級)を正しく扱わない者があ

   ったら、相当する罪のうち重い方を適用し、許すことがあってはならぬ。

 

和銅 五年( 712)正月     十六日  《諸国の役民、帰路で死》

   諸国の役民が郷里に還る日に、食糧が欠乏し、多く帰路で飢えて、溝や谷に転落し、

   埋もれ死んでいるといったことが少なくない。国司らはよく気をつけて慈しみ養い、

   程度に応じて物を恵み与えるように。もし死に至る者があれば、とりあえず埋葬し、

   その姓名を記録して、本人の戸籍のある国に報告せよ。

 

和銅 五年( 712)五月     十六日

   初めて国司が国内順行や交代の時に、食糧・馬・脚夫を給わる法を定めた。

 

和銅 五年( 712)十月二十九日     《諸国労役の人夫食糧の欠乏》

   諸国の労役の人夫と運脚(調・庸の物を運ぶ)が、郷里へ帰る日、食糧が欠乏して

   調達することが難しい。そこで郡稲から稲を支出して便利な所に用意しておき、役

   夫が到着したら、自由に買えるようにせよ。また旅行する人は、必ず銭を持って費

   用とし、重い所持品のため苦労することのないように、そして銭を使用することの、

   便利なことを知らせよ。 

 

和銅 六年( 713)三月     十九日   《物税運輸する人民の苦しみ》

   (略)諸国の地は、河や山によって遠く隔てられ、物税を運輸する人民は、永い行

   役に苦しんでいる。食糧は充分に整えようとすれば、貢納の数量が欠けることになり、

   重い荷を減らそうとすると、道中での飢えが少くないことを恐れる。そこで各自一

   袋の銭を持ち、道中で炉のある場所で、食事をする時の用に充てれば、労役の費(

   ついえ)をを省き、往き来の便が増すだろう。国司や郡司たる者は、富豪の者から

   募って米を路傍に用意し、その売買を行なわせよ。そして一年間の百斛(ひゃっこく)以上の米を売った者は、その名前を奉上させよ。(略) 

 

和銅 六年( 713)四月     十七日  《諸寺の田記》

   諸寺の田記に誤りがあるので、あらためて規定を改正し、一通は所司に保管し一通

   は諸国の国衙に頒ち置くことにした。 

 

和銅 六年( 713)五月      二日  《郡・郷の名称》

   畿内と七道諸国の郡・郷の名称は、好い字をえらんでつけよ。郡内に産出する金・

   銅・彩色・植物・鳥獣・魚・虫などのものは詳しくその種類を記し、土地が肥えて

   いるか、山・川・原野の名称のいわれ、また古老が伝承している旧聞や、異った事

   柄は、史籍に記録して報告せよ。 

 

和銅 六年( 713)七月      七日    

   美濃・信濃の境界、吉蘇路(木曾路)が開通。

 

和銅 七年( 714)四月二十六日      《職務怠慢》

   諸国の租稲を納める倉の大小や、内に積み貯えた数量は、帳簿に照合すれば食い違

   いはない。そのために国司が交代する日には、帳簿によって引き継ぎし、それ以上

   に調べ直すことをしない。しかし実際は欠け少なくなっていることが多く、徒らに

   形だけの帳簿をつくり、はじめから実数は無い有様である。これはまことに国郡司

   らが、現物にあたって調べていないことによっておこったことである。今後諸国に

   倉を造るときは、およそ三等の規格を設け、大には四千斛・中には三千斛・小には

   二千斛収納するようにせよ。こうして一定量を定めた後は、帳簿に偽りがないよう

   にせよ。

 

霊亀 元年( 715)五月      一日  《課役忌避など》

   天下の人民の多くは、その本籍地をはなれ他郷に流浪して、課役をたくみに忌避し

   ている。そのように流浪して逗流が三カ月以上になる者は、土断(現地で戸籍に登

   録)し、調・庸を輸納させることは、その国の法にしたがせよ。また人民をいつく

   しみ導き、農耕や養蚕を勧め働かせ、養い育てる心を持ち、飢えや寒さから救うの

   は、まことに国司・郡司の善政である。一方自分は公職にありながら、心は私服を

   肥やすことを思い、農業を妨げ利を奪い、万民をみしばむようなことがあるならば、

   実に国家の大きな害虫のようなものである。    

   そこで国司・郡司で、人民の生業を督励し、人々の資産を豊かに足りるようにした

   者を上等とし、督励を加えるけれども、衣食が足るに至らない者を中等とし、田畑

   が荒廃し、人民が飢え凍えて、死亡するに至る者を下等とせよ。そして十人以上も

   死亡するようであれば、その国郡司は解任せよ。また四民(士・農・工・商)には

   それぞれ生業がある。いまその人々が職を失って流散するのは、これまた国郡司の

   教え導くのに、適当な方法をとらないかで甚だ不当である。

   このような者があったら必ず厳重に処罰して見せしめとせよ。これからは巡察使を、

   派遣し、天下を手分けして廻らせ、人民の生活ぶりを観察させる。あつい仁徳の政

   治を行なうように勤め、詩経のことばにある周行の実現を庶(こいねが)うようにせよ。

   婚儀は諸国の人民が、国を越えて往来する際の過所(通行証明)に、その国の国印

   を使用せよ。

 

   3、聖武天皇

 

天平 十五年( 743)正月 十三日

   金光明最勝王経を読誦させるために、多くの僧を金光明寺(大和の国分寺。後の東

   大寺)に招いた。

   (略)仏弟子の朕は宿縁によって、天命をうつぎ皇位についている。そこで仏法を

   この世にのべ広め、もろもろの民を導き治めたいと願っている。云々

 

天平十九年       ( 747)十一月

   朕は去る天平十三年(741)二月十四日に、真心から発願して、国家の基礎を永

   く固め、聖なる仏の教えを常に修めさせようと思い、広く天下の諸国に詔して、国

   毎に金光明寺金光明四天王護国之寺の略)と法華寺(法華滅罪之寺の略)を造立

   させようとした。

   その金光明寺にはそれぞれ七重の塔一基を造立し、あわせて金字の金光明経一部を

   写して、塔の中に安置させることにした。

   ところが諸国の国司は怠りなまけてそのことを行なわず、或いは場所が便利でなか

   ったり、或いは未だに基礎も置いていない。

   思うに、天地の災異が一、二あらわれているのは、このためかと思う。(略)

   そこで従四位下の石川朝臣年足・従五位下の阿倍朝臣小嶋・布施朝臣宅主らを各道

   に分けて派遣し、寺地の適否を検べて定め、あわせて造作の状況を視察させよう。

   国司は使いおよび国師(その国内の、寺院、僧尼を監督する僧官)と共に、勝れた

   土地をえらび定め、努力して造営と修繕を加えよ。

   また郡司のなかで活発に諸事をなしとげることの出来る者を撰んで、専ら造寺のこ

   とを担当させよ。

   これから三年を限度として、塔・金堂・僧坊を全て造り終わらせよ。

   もしよく勅を守ることができ、その通り修造することができたら、その子孫は絶え

   ることなく郡領の官職に任じよう。その僧寺・尼寺の水田は、以前に施入された数

   を除いて、さらに田地を加え、僧寺には九十町、尼寺には四十町、所司に命じて開

   墾させ施入するであろう。広くこれを国・郡に告げて朕の意を知らしめよ。

 

山梨歴史講座 国司等に発せられた令 孝謙天皇

詔(みことのり)にみる国司の仕事

  詔(みことのり)・他(『続日本紀』)宇治谷孟氏-現代語訳

 

4、 孝謙天皇

 

天平勝宝 六年( 754)     九月 十五日 《出挙稲の利潤》

   諸国の国司らは、田租や出挙稲の利潤を貪り求めるので、租の輸納は正しく行なわ

   れず、出挙した利稲の取り立てに偽りが多い。

   このため人民はだんだん苦しみが増し、正倉は大変空しくなっていると聞く。

   そこで京および諸国の田租を、得不を論ぜず(不三得七の法にかかわらず)すべて

   正倉に輸納させることとし、正税出挙の利稲は、十の中三を取ることを許す。

   ただし田の作物が熟さず、調・庸を免除する限度になった場合は(欠損八分以上の

   場合)令に准拠して処分せよ。

   また去る天平八年の格(きゃく)を見ると、国司が国内において交易し、無制限に物を運ぶことは既に禁止されている。

   ところがなお敢えてこの格に従わず、利を貪って心をけがすことが珍しくなくなっ

   ている。

   朕の手足となるべき者が、どうしてこのようであってよかろうか。今後、更に違反

   する者があれば、法に従って処罰し、哀れみをかけて許してはならない。

   

賭博行為の禁止 

天平勝宝 六年( 754)     十月 十四日 《双六の禁止》

   この頃、官人や人民が憲法(国法)を恐れず、ひそかに仲間を集め、意のままに双

   六(すごろく)を行ない、悪の道に迷い込み、子は父に従わなくなっている。これで

はついに家業を失い、また孝道に欠けるであろう。このため広く京および畿内と七道の諸国に命じて、固く双六を禁断せよ。云々

 

天平勝宝 六年( 754)     十月 十八日 《射芸教習》

   畿内と七道諸国に命令して射田(射芸教習のための用地)を設けさせた。

 

天平勝宝 八年( 756)     六月    十日 《国分寺

   この頃、技術者を各地に遣わして、諸国の国分寺の造仏を促し調べさせた。来年の

   聖武帝の一周忌には、必ず仕上げるようにせよ。その仏殿も一緒に造り上げるよう

   にせよ。もし仏像および仏殿を、既に造り終えたならば、また塔を造り忌日に間に

   合わせよ。

   仏法は慈しみを第一とする。このために人民を苦しめてはならぬ。国志や派遣の技

   術者が、もし朕の意にかなうよう、よく仕上げた者があれば、特に褒賞を与える。

 

天平勝宝 八年( 756)     六月二十二日 《国忌の斎会》

   明年の国忌のご斎会は、正に東大寺で行なうことになる。その大仏殿の歩廓は六道

   諸国に命じ造営させ、必ず忌日に間に合わせよ。怠りゆるがせにすることがあった

   はならぬ。

 

天平勝宝 八年( 756)十一月       七日 《官物の搾取》

   聞くところによると、この頃、を出納する諸司の官人たちは、官物が納入される時、

   上前をはねようと、巧みに留めおいて、十日経ってもあえて官物を収納しようとし

   ないという。このために運送の人夫たちは、その足止めに苦しみ、競って逃げ帰る

   と聞く。

   これはただ政治を損なうだけでなく、実に人民の教化を妨げるものである。正に弾

   正台に命じて巡検させねばならぬ。今後、二度とこのようなことがあってはならな

   い。

 

天平宝字 元年( 757)     正月    五日 《郡領 軍毅》

   この頃、郡領(郡の大領・少領)・軍毅(軍団の大毅・少毅)に、無位の庶民を採

   用している。このため、人民は家に居ながら、官職につくことを当然とし、君に仕

   え働いて俸禄を得ることを知らない。これでは親に孝をつくすのと同じように、君

   主に忠を尽くすという気持ちは次第に衰え、人を教え導くことがむづかしい。今後、

   所司はよろしく有位の人以外は郡領。軍毅の選考の候補に入れてはならぬ。

   その軍毅には兵部省六衛府に仕える者の中から、わきまえが勝れ人柄大きく、勇

   ましく健全な者を選んで候補として任用し、その他の者にみだりに任用を求めさせ

   てはならぬ。それ以外の諸事については、格や令の規定によれ。

 

天平宝字 元年( 757)     五月    八日 《駅舎の利用制限》

   この頃、駅路を上り下りする諸使にすべて駅舎を利用させているのは、理にかなっ

   てはいない。これでは駅の人夫に苦労をかけることになる。今後は令の規定に

   従うようにせよ。

 

 

天平宝字 元年( 757)     六月    九日 《反仲麻呂派の不穏な動きへの牽制》   天皇は次のように五条を制定し申しわたした。

   その一 諸氏族の氏の上らは、公用をすておいて勝手に自分の氏族の人たちを集め

           ている。今後、このようなことがあってはならない。

 

   その二 王族や臣下の所有する馬の数は、格により制限がある。この制限以上に馬

           を飼ってはならない。

 

   その三 令の定めによれば、所持する武器については限度のきまりがある。この規

           定以上に武器を蓄えてはならぬ。

 

   その四 武官を除いては、宮中で武器を持ってはならない。

 

   その五 宮中を二十騎以上の集団で行動してはならない。

 

天平宝字 元年( 757)     十月    六日 《諸国人夫の悲惨な状況》

   聞くところによると、諸国からの調・庸を運ぶ人夫は、仕事を終わって帰郷する際、

   遠路のために食料が絶えてしまう、と。また旅先で病気になった人には、親しく世

   話をしてくれる人がいないので、餓死を免れるために物乞いをしてやっと命をつな

   いでいる、と。

   どちらの場合も旅の道中に苦しみ、ついに横死してしまう、と。朕はこのことを思

   いやって、哀れみに心を禁じえない。

   そこで、京都と諸国の官司に命じて、食料と医薬を量り与え、よく調べて無事に郷

   里に着けるようにせよ。もし官人が怠けて、この命令を実行しない者があったら、

   違約の罪を科することにする。

 

天平宝字 二年( 758)     十月二十五日 《国司の任期の短縮》

   (略)国司の任期を四年から六年にする。三年を経過する毎に巡察使を派遣し、治

   績を調査し、人民の苦しみを慰問させよ。二回の巡察の結果を見て、実情に随って

   官位の昇降をきめよ。願わくば国司の貪欲な気風を一掃して、ことごとく清新な気   風に改め、人民の負担を緩和し、しかも倉庫は充満している状態を希望する。

 

天平宝字 三年( 759)     五月 十七日    《人夫の救済》

   (略)この頃、冬の季節になると、市のあたりに餓えている者が多いと聞く。その

   わけを問い質すと、皆諸国から調を運んできた人夫で、郷里に還ることができなく

   て、ある者は病のために悩み苦しみ、ある者は食糧がなくて飢えと寒さに苦しんで

   いるという。

   朕はひそかに彼らのことを思い、深く心に哀れんでいる。そこで国の大小によって、

   公廨稲から一定量を採り出して、常平倉を設け、米の時価の高低によって、売り買

   いを行ない利益を収め、還ろうとする人夫の飢えと苦しみをあまねく救うようにせ

   よ。(略)

 

天平宝字 三年( 759)十一月       九日 《国分寺国分尼寺の図面》

   (略)国分寺国分尼寺の図面を天下の諸国に頒(わか)ち下した。

 

天平宝字 五年( 761)     六月    七日 《国分尼寺

   光明皇太后の一周忌の斎家を阿弥陀浄土院で設けた。その院は法華寺の西南隅にあ

   り、皇太后の一周忌の斎家を行なうために造営したものである。

   一方天下の諸国に命じて、それぞれの国分尼寺で、阿弥陀仏の丈六の像一體、脇侍

   の菩薩像二體を造らせた。

甲斐上代国政関係者一覧

甲斐上代国政関係者一覧

 

甲斐国志』「姓氏部」

 

《註》年代順ではありません

「甲斐」を名乗っても山梨の出とは限らない。

九州宮崎にも「甲斐」を名乗る武将も鎌倉時の書に多々見える。

 

◇甲斐前司家国(宗国)

 

建長、正嘉の引付番の内に見ゆ。

甲斐国に任ずる人なるべし。姓氏を知らず。     

建長(1249~1256)正嘉(1257~1259)    

『東艦』

 

◇甲斐守為時(為成)

 同書正元、弘長中の記に見えたり。又姓氏不詳。

正元(1259~1260)弘長(1261~1264)『東艦』

 

 甲斐次郎左衛門尉

 甲斐三郎左衛門尉為成

 甲斐五郎左衛門尉為定                                           『東艦』

 等とあり為時の息子か。  

 延喜の後世既に陵遅の及び国史詳ならず。

経歴二百年にして保元・平治(1156~1160)に一変し、

鎌倉創業時至諸国守護職を置き政を専にす。

是に於て国守の威権漸く衰へ紀綱弛みけれは叙任の事も分明ならず。

凡て守護人を斥して国守と称する。  

類間々多し。本州は武田一門鎌倉の親族たるを以て、

武威殊に厳なれば郡司庄官の所知を併合して国中に延蔓せり。

然れども応仁(1467~1468)擾乱の頃までは

猶微々として国衙の号令行はれし趣なりき。

但し国守の交替僚属の姓名等は得て記するもの甚だ少なり。

 

◇甲斐大掾中原清重                                   

延慶四年(応長元年/1311)三月三十日県召除目。              

『園大暦』

 

◇長井甲斐前司泰広 

 建武年間(1334~1338)の記に

関東臨番の中に見ゆ大江一族なり。

       

◇武田甲斐守 

 太平記建武二年(1335)の項に、『太平記

 

◇甲斐守守正                                                     『太平記』甲斐前司盛信         康永四年(貞和元年・1345)

天龍寺供養の記なり。園大暦には前司と記して盛信の字なし。

盛信は岩崎氏にあり。『天龍寺記・園大暦』                                                                             

◇一条源八時信                                                                  

 為甲斐守其孫甲斐太郎信方又為甲斐守以上不詳。『一蓮寺旧記』

 《註》 武川衆の祖とされるが事績は不詳。

 

◇武田伊豆守信武

 専ら惣領職なり。分流の家より甲斐守に任ずる事覚束なしとなん。

 

◇久下甲斐目成氏 

太平記、金勝院本に元弘元年(1331)

主上笠置没落する条下生捕人の中に見ゆ。

                                                                 ◇『太平記』 甲斐介藤原重尚  

 貞和二年(1346)二月十九日                                 

 

◇『園大暦』 甲斐目藤井有彦  

 今日被始行県召除目也。二十二日入。夜聞書到来と云々。

 

◇甲斐権目坂田重久 

 康永三年(1344)正月の記にあり。

 

◇弾正忠業朝   

 貞治三年(1364)十二月十一日                       

 寄進状一章の文中に前々目代方寄進状坡見之上は云々とあり。

業朝も国衙に居りし目代なり。『一蓮寺所蔵花押』

 

◇斯波陸奥守      

 建武四年(1337)七月十六日                             

 柏尾大善寺所蔵国衙の在庁文書

 散位花押、小岡郷内にて寄進の証状なり。

観応二年(1351)六月二十日

補任甲斐国東三眛田肆段名主職事最手房丸所云々               

柏尾大善寺所蔵国衙の在庁文書

 留守別花押・国別当花押        嘉慶元年(1387)十二月十三日    

補任甲斐国国衙八幡宮法華経田公文職事柏尾大善寺所云々

 留守所花押 文安六年(宝徳元年/1449)五月二十六日

 

◇河村隼人・船越因幡

 花押禁制一章あり。文面によるに国衙の書法なり。

右合わせて五通前文附録       にのす。この頃本州に領地ありし人。

観応二年(1351)『奈良原広済寺文書』                      

 

◇石堂右馬允義房・桃井播磨守直常・高播磨守師冬               

 京攻の条に桃井直常扇が一揆の中より

 秋山蔵人光政云々(秋山は本州の人。

本伝に出づ。此時桃井に属し出陣す。     

高倉殿京都退去の条に石堂右馬允義房

・桃井播磨守直常二人高倉殿へ参て申けるは、

 甲斐国越中国とは己に我等か分国として相交る。

敵候はねば旁以て安かるべきにて候とあり。

 同二年高師甲斐国に落ちて洲沢城の籠り討ち死にせし事。

又阿保肥前守忠実・荻野尾張守朝忠采色邑の事等見ゆ。

 当時武田一類六人、逸見・小笠原の一族十六人なり、

と云う文も見えたりと他姓の人も多く食采せし事なるへし。             

太平記』                                                         

◇斯波陸奥守家長 建武四年(1337)七月十六日                        

 甲斐国小岡郷内寄進状

暦応二年(1339)四月十九日       『柏尾大善寺文書』       

国衙在庁の証状の添状も有之

 一色氏・金丸氏・土屋氏の家系を按に本州の在りし。

 一色氏は左京大夫範氏四世の孫満範より出る趣なり。

武河(現、韮崎市上条南割)の大公寺の所建大興寺殿(範氏法名

の牌子あり。始祖の香火場に営む所なるべし。

 『柏尾大善寺文書』  

一蓮寺過去帳に永享十一年(1439)二月十日、

縁仏房(一色参州息女)あり、其党ならんか。『一蓮寺過去帳』                             

◇渋川宮内右衛門尉義長

 志麻庄上条八幡宮、大永四年(1524)の棟札に見えたり。

 

◇武田臣(姓氏録云、竹田臣)

 孝元天皇皇子大彦之男武渟川別尊ノ俊也。

 (竹・武訓相通ス)日本記祟神天皇十年(日本書紀/紀元前88年)

旧事記ヲ按スルニ武渟川ノ裔孫大臣命為諏方国造趣ナリ。

 続日本記養老五年(721)割信濃国始置諏方国天平三年(731)廃

諏方国伴信濃国トアルハ後再有置廃之事ニヤ。  

 本州ノ地モ諏方国ニ割キ併セラル故アリテ淳川(今武河ニ作ル)

武田ノ地名キカ此ニ起ス日本武尊之皇子亦此ニ封ヲ受ク。

武田王ト称スト云。古蹟部ニ委シ。

 延暦廿四年(805)従五位下岳田王為甲斐守事日本後紀ニアリ

岳田、武田ノ異同未考)

 後ニ武田太郎信義廃柏ヲ風シ絶エタルヲ嗣キ始

武田ヲ以テ氏号ト為シ是ヲ以テ其家信義ヲ宗相ト称シ

世々諏方法性大明神ヲ崇敬シテ氏神ト為スナリ

信玄号法性院信勝ノ幼名云竹王丸ノ類皆本于此ト云

 

布施朝臣 

 姓氏緑ニ武田臣同相也中世ニ布施氏アリ。

武田氏ヨリ紹ク親故部ニ出ツ

以下所記都郷圧保旧池名ニ拠ル者ハ所賜ノ姓戸ニシテ

氏族所賜ノ姓戸ニシテ氏族ニ非ズト覚エタリ  

後一変シテ氏ト為ル者へ此ニ略記シテ本伝ニ委ス他皆之ニ隣ヘリ。           

靱大伴部連 ユキヘヲヲトモノムラジ

 景行天皇四十年(日本書紀/110)日本武尊征東夷(中略)

甲斐国酒折宮(中略)則居是宮以籾部賜大伴運之遠祖武日也

(武日此時副将軍ナリ)

 姓氏録ニ大伴宿欄高皇産霊尊五世孫夫押日命之後也

天孫彦火瓊々杵尊神駕之降也。  

天押日命大来目部立御前降千日向高千穂峯然

後以大来目部為天靱負部靱負之号起於此也

雄略天皇御世以天靱員賜大連公ニ云々

続日本紀神護景雲三年(769)

陸奥国白河郡人外正七位下靱大伴部継人、

黒川郡人外従六位下靱大伴部等八人

賜二大伴蓮一ト見エタリ大伴ハ淳和天皇(823~ 831)ノ御誼也       『日本紀

 弘仁十四年(823)改大伴宿禰為伴宿禰蝕レ諱也トアリ。

 従ヨリ爾後単ニ伴ト称ス。

(信州有伴圧後伴野氏出之豊後大友氏目藤原姓出)   

甲斐国山梨郡ノ人伴直富威、

三代実録貞観七年(865)

八代郡擬大領無位伴直真員同郡人伴秋吉等ノ事アリ

酒折ニ兎宅倍山ト呼ブ処アリ。

続日本後紀

師ハ軍器ノ名号手ニ繋ケテ受弦モノニテ其文ヲ鞆絵ト云。

即チ後世所謂巴ノ紋ナリ。  

此山草莽ノ間岩石缺ケ落チテ自然ニ鞆絵ノ形アラハル。

故ニ之ヲ名トス。

酒折ハ古蹟部ニ記ス。

 上代ノ都会風致アル天府ノ境地大伴武日居之領靱部之地

故ニ子孫靱大伴ト称セシナランカ。

蓋シ資地名山大伴部ノ濫觴此処ナルヘシ

(城州鞆岡、備州鞆律モ此類ニヤ)

 郡司大少領ハ終身ヲ以テ限ト為ス。

麿代之任ニ非ストアレハ伴姓亦連綿ト続キタル在庁ノ官人ナラン。

一連寺過去帳ニ文明ノ頃(1469~1487)

伴野作州法名行阿ト云者見ユ

壬午ノ時ニ伴嘉石衛門等アレトモ闇エタル者ハ希ナリ

酒折」酒依ニ作ル。今阪折トス。中世酒依氏アリ士庶部ニ記ス。

 

◇大伴山前運 

  姓氏緑ニ大伴宿禰同祖日臣命之後也トアリ。山前今山埼ニ作ル中世山前圧ト云又桜井村アリ桜井宿禰ノ事ニ因ルカ皆阪折ノ近隣ナリ。

 

◇ 建部公 

 姓氏緑ニ日本武尊之後也日本紀日本武尊白鳥(中略)

作三陵号日白鳥陵欲録功名即定武部也トアリ。

即是也古蹟部ニ記スル所小石和筋ニ竹居村アリ古竹生ニモ作ル。  

今モ鳥阪ノ下花鳥陵ニ日本武尊ヲ祀レリ。

稚彦路ノ由ル所ニテ日本武尊ノ皇子稚彦王  

此ニ封ヲ受ク即チ武部ノ地是ナリト云。

建、竹、武ハ古通シ用ヰタリ。

建部タテベト訓シ或ハ源姓ヨリ出ツト云ハ非ナルヘシ

 

◇塩海宿禰 

『旧事記』所戦甲斐国造ナリ己ニ前ニ見エタリ

其姓へ後マデ本州ニ伝ハレリ

(塩海ハ房州安房都ノ郷名ニテ和名抄ニ見ユ。

 今塩見村存セリト云。本州北山筋ニ塩部村有り

旧池名也若シクハ之ニ本力)

                                                                  

『旧事記』『保元物語』ニ保元々年(1156)七月

官軍勢そろへの条ニかひには、しほみの五郎同六郎

(参考ニ云鎌倉本志保美ニ作ル)

又御曹子為朝のために甲斐国の住人塩みの五郎射殺さると云云。     

保元物語

 大石寺本ノ曽我物語ニ建久八年(1197)

富士野ノ裾井出ノ屋形云云。

甲斐国住人ノ中ニ渋美弥五郎同六郎兄弟八人トアリ。

渋実ハ塩見ノ誤ナルヘシ中古他之記載ニ顕ハレサレハ

委シキ事ハ知レザレトモ此頃ニ至ルマテ姓氏伝ハリテ

国士タル趣ナリ。後ニモ流落シテ其氏アリ。                     

曽我物語

 寛氷三寅年(1626)

北山西小松石宮ノ棟札ニ大工塩見左兵衛、

同十七辰年(1640)

和田村諏方明神ノ棟札ニ塩見官内丞ト見エタリ。

今因州取鳥渚中ニ塩見兵太夫ト云者アリ。

其先へ本州ヨリ出聞キタリ

 

◇波多八代宿禰

 古事記ニ建内宿禰之子有波多八代宿禰波多臣、林臣波美臣、

長谷部ノ君等之祖也。                

古事記』  

三代実緑ニ貞観六年(864)八月八日右京人故従五位下

岡屋公祖代賜姓八多朝臣先出自八太屋代宿禰也トアリ

波多、八多トモニ秦ニ同シ今モ姓氏ト為ス者アリ

八代ハ都名、郷名ニモ呼ブ。                                        

『三代実緑』  

小石和筋古跡部ニ委シ後ノ八代氏奴白トモ称セリ

武田ノ親族ナリ屋代ハ信州ニ地名アリ其義八代ト云ニ同シ。

 

◇波美臣

 速見又逸見ニ同シ。巨麿都ノ郷名ナリ。

今逸見筋ト云逸見ノ冠者義清ノ拠ル所子孫相承ケテ氏トス。

此筋ニ大倉、小倉(虚々井、又爰井ニモ作ル)

 二氏ハ後ニ小笠原氏ヨリ続ク。藤井保、熱都ノ圧、

須玉ノ類旧族ト見エタリ古跡部ニ審ニス。

 

◇林ノ臣 

 林戸ハ山梨都ノ郷名又林部ニ作ル。

姓氏録ニ林ノ朝臣ハ石川ノ朝臣ノ同祖武内宿禰之後也トアリ。

能呂於曽モ同 郡ノ郷名ナリ共三枝ノ村連条ニ出ツ。

 

◇井上 

 同郡ノ郷名ナリ後ニ甲斐守源頼信ノ弟

乙葉三郎頬季ヲ立テ命氏族ト云。将帥部ニアリ

 塩田荘及岩埼ト云モ此筋ノ著姓ナリ。

 

◇石禾(石和)

 同郷ノ郷名ナリ後ニ石禾御厨ト云国衙ニ隣レル都会也。

今大石和筋ト呼ヘリ平治物語ニ石和四郎信景ト云者ヲノス。

氏族アリテ武田ノ大姓ナリ。

 

◇中臣栗原ノ連 

姓氏緑ニ天児屋根命七世孫雷大臣之後也トアリ

栗原へ郷名今栗原筋ト称ス。

武田家ヨリ柏ヲ紹キ氏族トナル。(等力・トドロキ)ナル。

 

◇等力或ハ轟ニ作ル。

 大野共ニ同筋ノ郷名ナリ今記スル所ナシ。

 

◇曽根ノ連 

 姓氏録ニ神饒速日命之後也トアリ。八代郡ノ荘名ナリ。

阿佐制ノ圧(又浅利ニ作ル)

 同郡ニ在り共武田ノ親 族ナリ将帥部ニ記ス

 

◇長江  白井   

郷名ナリ是モ氏族アリ

 

◇ 市川

 姓氏録ニ市川朝臣(又市川臣)大春日朝臣同祖、

天足彦国押人命之後也ト云云。

市川又市河ニモ作ル郷名ナリ。『姓氏録』

 東鑑ニ市川別当行房等アリ将帥部ニ記ス

大石寺曽我物語ニ一河、城ノ小太郎ト記セリ。

按ニ城氏ハ鎮守府将軍秋田城ノ介平維茂ノ後ヨリ出ツ。

今此郷内ニ城山ト云処ヲ里人ハ相伝へテ城殿ノ堀址也ト云ヘリ。

然レバ後ノ市河氏ト云者ハ本、城氏ニシテ平姓ナリシニヤ。      『東鑑』

 

◇小勢小柄宿禰

 古事記武内宿禰之男也許勢臣雀部臣等祖也。

姓氏録ニ巨勢朝臣ハ石川同祖巨勢雄柄宿禰之後也トアリ。

山梨中都ノ古蹟部士庶部委シクス。許勢ハ小瀬氏ナリ。

武田ノ親族衆ニアリ。

小柄ハ小河原氏ナリ変シテ二氏トナル人、

亦其姓ナル事ヲ云ハス。

又小曲氏モ此辺ニ村名アリ、旧族ト見エタリ。『古事記

 

◇巨勢槭田朝臣 

 姓氏録ニ雄柄宿禰四世孫稲茂臣之後男荒人 

京極御世(日本書紀/642~644)  

遣佃葛城長田其地野上漑水難至荒人能鮮機術始造

長槭川水潅田天星大悦賜徹田臣姓也  

(槭ハ和名秒云和名以比、

准南子決塘発槭註云槭所以□竇トアリ今云埋樋也)

北山筋ニ飯田村アリ其訓協ヘリ。後飯田氏ハ武田ノ氏族ニアリ。       

『姓氏録』   

 

◇三枝連 

 日本紀顕宗天皇三年(日本書紀・487)

夏四月戊辰置福草部姓氏録ニ三枝ノ連、  

天津彦根命十四世孫建呂巳命之後也『日本紀

 頭宗天皇御世集ニ諸氏賜饗醺于時宮廷有三茎之章献

之因賜姓三枝部連云々

延喜式云福草端草也朱草別名也生 宗廟中云々。

 和名抄云佐木久佐、又加賀国江沼郡、

飛騨国大野都等ニ三枝郷アリ佐以久佐ト訓ス、  

是福草ノ遺称ナルヘシ)       『和名抄』

 『拾芥抄』ニ率川社南在社三枝御子也

以三枝華・餝・酒樽祭故日三枝ノ祭神祇令ニノセ和歌ニモ詠リ。 

 『続日本後紀

承和十一年(844)五月丙由甲斐国山梨郡人伴直富成カ女、

年十五嫁郷人三枝直平麻呂生一男一女而

承和四年(837)平麻呂死去也。厥後守節不改、年也

四己十四而攀号不止、

恒事斎食榜於霊床宛如存日量彼操履堪為節婦考

勅宣終身免其戸田租即標門閭以旌節行トアリ。『続日本後紀

 

 三枝家伝ニ守国罪ヲ蒙り甲州東都能路ニ配流セラレ後ニ

在庁官人トナリ鎌田氏之女ヲ娶リ四男子ヲ生ム(中略)

柏尾寺ヲ建テ氏寺ト為ス

長徳四年戊戊(998)九月十九日卒

年百六十ト見エタレハ其生誕ハ承和六年(839)ニ当レリ。

然レハ彼ノ配流以前ヨリ本州ニハ三枝直ヒ者アリシ事明ナリ。

是即チ三枝部ノ祖ナルヘシ。

                                                                『三枝家伝』

 長寛勘文ニ甲斐守藤原朝臣忠重、

目代右馬允中原清弘在庁官人三枝守政絞刑ニ処スト見エタレハ、

斯ル時ニ三枝ノ本家断絶ニ及ビシカ後ノ記載ニ顕レタル者ナシ。    

柏尾山所蔵正安三年(1301)上マキ用途勧進ノ記ニ

三枝吉家、三枝正家アレト其人へ審ナラス。『長寛勘文』

 

信虎ノ時石原丹波守ニ命シテ旧祀ヲ秦ジ

三枝姓ヲ輿サシム事ハ将師部ニ委シ。

 三枝系図ニ所記守国五男子アリ(兄弟ノ行次ハ異説アリテ不分明)

 

◇石原太郎守氏 

 母ハ石原氏長男為り。

或五男石原介守時ニ作ル後ノ三枝氏ハ此苗裔ヨリ興ル。

 

◇能呂介守将 

 母ハ鎌田氏以下同シ。能呂ハ山梨郡ノ郷名也。

後ニ其一類ヲ称シテ能呂党ト云。辻ト云地名モ郷中ニアリ。

別ニ氏トナル各土庶部ニ記ス。

 

◇林戸介守党(守当守常ニ作ル)

 同郡ノ郷名ナリ。前ニ出ツ。

 

◇立河介守忠

 同郡ノ庄名ナり。或ハ太刀河、竪河、館川ニモ作ル彼条ニ委シ。

 

◇於曾介守継

 於曾ハ同郡ノ郷名ナリ。後ニ武田家ヨリ紹ク。親族部ニ記ス。

萩原ト云地モ近隣ニ在リ同族ナリト云。

世ニ称スル所ノ三枝七名トハ

三枝、能呂、林戸、於曽、石原、立河、辻(辻 或萩原ト為ス)是ナリ。

外ニ窪田、石坂、山下、沓間(久津間ニ作ル)内田等ノ

諸氏三枝姓目ラ出ツト云。

但シ三枝ハ姓也諸記ニ三枝松氏トモ書ス。

未ダ其所以ヲ知ラズ。

又柏尾山、窪八幡等所蔵寛氷中(1624~1643)

三枝伊豆守守昌等ノ文書ニハ皆源姓ト記セリ。

其余紀姓トシ平姓ト称スル者アリ。明拠ナクンバ誤ト云へシ。

 

熊野村熊野神社応仁元年(1467)ノ棟札ニ三枝臣菱山真徳、

同社天文十八年(1549)ノ棟札ニ

三枝朝臣石原孫石衛門甫直ト記セリ。

三枝グ尸(カバネ)へ連ナルヲ臣又朝臣トモ書セルコト

如何ナレトモ姓ヲハ忘却セザリシナリ。

 日本紀天武天皇白鳳元年(672)

発東海東山軍云々、甲斐勇者トアリ。

又按諸史古時令諸国貢進捻膂力人(或相撲人ニ作ル)

及軍団兵庫倉廩ヲ置キ防人ヲ命セラル。

 『日本紀』  

延喜式ニ健児甲斐国五十人トアリ。凡べテ姓名ヲ記サズ。

 同書ニ持統天皇二年(688)五月戊午朔、

乙丑以百渚敵須徳那利移甲斐国ト見ユ。其事解スヘカラス。『延喜式

 

◇田辺史 

 姓氏録ニ豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也。

又田辺宿禰アリ。続日本紀天平中(729~765)

甲斐国守田辺史広足見ユ後ノ田辺氏是ヨリ伝ハルカ。

其世ハ既ニ□焉タリ。『姓氏録』

 

◇小谷直 

 続日本紀神護景雲二戊申年(766)

五月辛未甲斐国八代郡人小谷直五百依

以孝見称復其田祖終身ト按ニ八代郡ニ大谷山アリ。

大ノ言へ小ニ混ズ大田切、小田切ノ類ノ如シ是其遺名なランカ。

又其条ニ委シ。       『続日本紀

 

◇石川・広石野 

 日本後紀延暦十八年己卯(799)十二月五日甲戊

甲斐国人止弥若蟲、久信耳鷹長等一百九十人

言己等先祖元是百済人也。

仰慕聖朝航海投化即天朝降縞旨安置摂津職後

依丙寅歳正月廿七日格更遷甲斐国自爾以来年序

既久伏奉去既久伏奉去

天平勝宝九歳(天平宝宇元年/757)

四月胃勅稱其高麗、百済新羅人等遠慕聖化来附我俗情願賜姓  

悉聴許之而己等先租未改蕃姓伏請蒙改姓者賜若蟲

姓石川、鷹長等姓広石野トアリ。

 『日本後紀

 姓氏緑ニ石川朝臣孝元天皇皇子彦太忍信命之後也、

広石野都留郡ニ小篠村アリ若シクハ其遺名ナランカ。『姓氏緑』

 

◇上村・小長谷直

 日本逸史天長六年己酉年(829)十月乙丑

甲斐国人節婦上村主万女叙位二級終身

免戸田租万女年十五嫁小長谷直浄足生三男一女

去大同三年(808)

浄足死去自爾以後礼敬虚霊猶甲如在村里称之ト

按ルニ姓氏録ニ上村主出自魏武帝陳思王植之後也。

号 東阿王又広階(ヒロハシ)連同祖通剛王之後也トアリ。               『日本逸史』

 山梨郡ニ加美郷、都留都賀美郷アリ。

小長谷モ都留郡ニ強瀬村アリ。

永正十七年(1520)岩殿権現棟札強瀬四郎三郎同六郎ト見ユ。

 又小長谷長門守道友ト云者壬午ノ後幕府ニ奉仕ス

同十九卯年死六十二歳也法名常栄ト号ス。

 

◇大村ノ直 

 姓氏緑ニ天道根命六世孫若積命之後

又紀直岡祖大名草彦命男枳弥命之後也。 

 (紀州ニ名草都牟婁都アリ室、村ハ通用)

山梨郷、加美郷ニ後牧之荘ヲ層キ馬城ヲ三段ニ分チテ

中牧、西保(保ハ部也)等ノ名アリ。

中牧ニ大村ト云処アリテ大室、大牟礼トモ呼ヘリ

(牟礼トハ族集ノ義ニテ村室モ同言葉ナリ)

是大村直ノ拠ル所カ。後ニハ大村一党トテ党ヲ樹ル土人アリ。

室臥、奥葛間、西保、小田、武河等ノコトハ古跡部ニ記ス。

 

◇要部、田井、古爾、玉井、要部、大井、解礼、中井、

 続日本紀延暦元壬成年(782)六月庚辰

甲斐国山梨郡人外正八位下要部上麻呂等

改本姓為、田井 古爾等為玉井 鞠部等為大井

解礼等為中井並以其情願也。『続日本紀』  

田井ハ地名不詳後ニ武田氏ヨリ紹キ田井五郎光義ト云者アリ。     

玉井ハ山梨郡東部ノ郷名也。

八雲御称ニハ玉ノ井ノ里ト見ユ。

本州ノ姓氏ニハ聞エタル人ナシ。鞠部「カナマリ」ト副スヘシ

 東鑑ニ上総国ニ金鞠藤次アリ。後ノ記録ニ金丸氏トス。

本州ノ金丸氏ハ武田ヨリ嗣キ鞠部ノ廃迹ヲ輿スナリ。

将帥部ニ委シ、信州ノ丸子駿州ノ鞠子亦之ニ類スヘシ。

 国守部ニ記スル所ノ丸部臣ハ鞠部ニ同シカラス。

東鑑ニ安房国丸ノ御厨又丸五郎信俊ト云者見エタリ。

後ニ丸、東条、安西、金鞠トテ彼国ノ四家ト称ス。

本州ニ丸氏ハ所聞ナシ 『東鑑』

 

◇解札 

 後世塩入氏ノ類ニテ加入海瀬ナト云氏族アリ。

是其遺称ナランカト云者アリ未穏。

 

◇中井   

 本州ニ所聞ナシ。並ニ要部、古爾、未考。

甲斐上代国政関係者一覧 2

甲斐上代国政関係者一覧 2

 

◇大井 

 巨摩都ノ郷名ナリ。山梨郡ニモ大井窪ト云処アリ。

大井郷ハ後ニ大井ノ圧トモ云。

 

 宇治袷遺物語

  

甲斐国の相撲大井光遠はひざふとにいかめしく力つよく足はやくみめことからよりはいみじかりし相撲なり。それが妹に年廿六七ばかりなる女のみめことからけはひもよくすがたもほそやかなるありけりそれはのさたが家にすみけるにそれが門に人におはれたる男の刀をぬきてはしり入てこの女をしちにとりて脇に刀をさしあてゝ居ぬ人はしり行てせうとの光遠に姫君は質にとられ行ぬとつげられは光遠がいふやうそのおもては薩摩の氏長ばかりにこそはしちにとらめといひてなにとなくてゐたれはつけつるをのとあやしと流もひてたちかへりて物よりのぞけは九月はかりの事なれば薄色の衣重に紅葉の袴をきて口おほひしてゐたり男は大なるおのこのおそろしけなる大の刀をさかてにとりて腹にさしあてゝあしをもてうしろよりいたきてゐたりこの姫君左の手してはかほをふたぎてなく右の手しては前に矢のゝあとつくりたるが二三十ばかりあるをとりて手すさみに節のもとを指にて板敷にをしアてゝにじれば朽木のやはらかなるをおしくだくやうにくたくるをこのぬす人目をつけて見るにあさましくなりぬいみしからんせうとのぬしかな槌をもちて打くたくともかくはあらしゆゝしかりけるちからかなこのやうにてはたゞいまのまにわれはとりくだかれぬべしむやくなりにげなんと思て人めをはかりてとびいてゝにげはしる時にすゑに人ともはしりあひてとらへ行しばりて光遠かもとへぐして行ぬ云々

 日蓮年譜ニ弘安五年(1282)九月九日

大士大井ノ荘司ニ投宿スト見エタリ。諸書ニ荘司ハ日蓮ノ弟子日興ノ父トス。

 日輿ハ六老僧ノ一員ニテ富士派ノ所祖ナリ

(信州ニ大井圧二所アリ東鑑ニ載セタル大井兵三次郎実治、大井紀石衛門実平等ハ紀姓也。

 又小笠原次郎長清ノ七男大井太郎朝光ト云者佐久郡大井ヲ食テ岩村田ニ居ス。

子孫繁シ皆本州ノ大井姓ト異ナリ(武田陸奥守信武ノ次男信明大井弾正少弼ト号ス)

廃祀ヲ輿スナリ。是ヨリ本姓源ヲ称シテ大井ハ氏族ノ如クナレリ。西郡士庶部ニ詳ナル故ニ此ニ略ス。                                                      

◇吉弥候部 キミコベ

 日本逸史弘仁十四年(823)五月戊午甲斐国賊首吉弥候部井出麻呂等大少男女十三人悉配流伊豆国

『日本逸史』  

天長八年(831)

二月戊寅甲斐国浮囚吉弥候部三気麻呂、同姓草手子二烟附實駿河国使無塩也。

類聚国史ニ吉弥候部ヲ作二吉弥雙部一誤也又使無塩也。作下便無塩也。 

天平宝字元年(757)

三月勅故君子部為吉美候部姓氏録ニ吉弥雙部ハ上毛野朝臣同祖也トアリ)

 

◇壬生直

 三代実録元慶六年(880)十一月朔己巳甲斐国巨痲都人左近衛将曹従六位上壬生直益成男三人女四人山城国愛宕郡ヲ實隷ストアリ。

逸見筋小尾ニ丹生ト云地名アリ。壬生ノ忠岑本州ノ役ニ補セラル事アリ。『三代実録』

 

◇清原真人 

 三代実録元慶八年(882)十二月五日壬戌甲斐国言嘉未禾管山梨郡石禾郷正六位清原真人当仁宅一其一十三茎五十穂、其一十二茎三十六穂当仁是従四位下豊前王之子也(石氷当作石禾)其子孫ノ事ハ大石和筋ニアリ。『三代実録』

 

◇小野 

 姓氏録ニ小野朝臣大春日朝臣同祖、彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也。大徳小野臣妹子家于近江国滋賀郡小野村因以為氏、又小野臣天足彦国押入命七世孫人花命之後也、『姓氏録』

 本朝世紀天慶四年(941)十一月二日戊午甲斐国真衣野柏前御馬十五匹到来云云。  

其解文左馬少允小野国輿持参トアリ。都留郡ニ小野村アリ。又穂坂ノ小野ハ歌ニモ詠メリ。

国輿ハ本州ニ在リシ牧監ノ類ナルヘシ。

同紀左馬権少届秦忠見御馬便彼国大目伴並高左馬少允源致等見ユ皆牧馬ノ吏ナリ 『本朝世紀

 

◇榎下・宮道・麻生 

 東鑑ニ建久五年(1194)八月廿日戊申遠江守ノ(安田義定ナリ)伴類五人名越辺被刎首所語前滝口榎下重兼、前石馬允、宮道遠式、麻生平大胤国、柴藤々三武藤五郎等也トアリ。榎下ノ事ハ大石和筋ニ記ス。姓氏録ニ榎本連ハ大伴運同相也、麻生ハ逸見筋ニ地名ニアリ今浅尾村ト云、宮道柴藤ハ所伝詳ナラス其頃官名ヲ帯ビタル人ハ皆在庁ノ国土ト見エタリ。称スル所モ姓ニシテ氏族ニ非サル人多力ルヘシ。『東鑑』

 

◇ 榛原公 

 姓氏緑ニ息長真人同祖 誉田天皇ノ皇子大山守ノ命ノ後也トアリ。榛原ハ泰原(ハリバラ)ニ同シ。遠州泰原郡(倭名抄訓波伊波良)貝原ガ大和本草ニ榛ノ葉榿木(ハンノキ・ハリノキ)似タリ。故ニ榛原ヲ「ハリハラ」ト訓スル由見エタリ。 『姓氏緑』   

武州ノ榛谷(ハンガヤ)榛沢ト云地名ノ如シ。本州ニ榛原氏アリ又埴原ト書ケルハ信州埴科(ハンシナ)郡ノ地名ナリ「ハニ」ト訓スヘシ。相混セシト見エタリ。            

 

余戸 

 和名抄所載ノ郷名也。他州ニモ同名多シ其義延喜式等ニ見ユ「アマリ」ト副スベシ。後甘利ニ作ル武田ノ親族ナリ 『和名抄』

 

◇真衣

 (真衣野・真木野トモアリ)共ニ武河筋ニ在ル郷名ナリ。氏族ノコト未考。

 

◇高村ノ宿禰 

 姓氏録ニ出目魯恭王之後 青州刺史列宗王也。今作高室地名在巨摩西郡小笠原氏ヨリ紹ク所也。 『姓氏録』

 

◇錦織村主

 同書ニ出目韓国人波努志也。地名同郡奈胡圧ニ在リ。錦織判官代ト云者太平記ニ見エタリ。

奈胡五味等モ此庄ニ出ツ。

 

◇加賛美部(又鏡ニ作ル〉

 姓氏録各務(カガム)ハ未者ノ内ニアリ。武田親族加賀美氏ノ拠ル所ナリ。小笠原モ此西ニ在リ。『姓氏録』

 

◇川合 

 姓氏緑ニ上毛野同氏多寄波世君之後ナリ。川合ハ郷名ニ在リ。後ニ河内ト云。武田親族ヨリ紹ク南部、下山岩間、下部等此郷ノ庄名ナリ。『姓氏緑』

 

◇神服部  

 逸見郷ニ神取村アリ。或加鳥ニ作ル。日本紀神護景雲三年(769)奉神服部天下諸社トアリ。是其遺名ナルヘシト云。

 

◇青沼 

 北山筋ノ郷名ナリ後ノ青沼氏ハ将帥部ニアリ。又穂坂圧モ此筋ニ在リ。

 

◇鹿角(カツヌ) 又加澤野ニ作ル 

 ヌノ仮名ハ通用ナリ。将帥部ニ出ス。亦勝沼氏之ニ同シカルヘシ都留郡ニ葛野村アリ。  

 

◇波加利  

 都留郡ノ荘ノ名ナリ。初雁氏。初鹿野氏ニ之ニ同ジカラント云ヘリ。将帥部ニ出ツ。

 

◇古郡                                           

 古都ハ同郡ノ郷名ナリ東鑑ニ古郡左衛門尉保志ノ事アリ。旧キ国人ナルヘシ。後ノ古郡氏ハ蓋シ此ニ出ツ。将帥部ニ委シ。

                                                                                          

甲斐国志 巻之九十三終 甲斐国志巻之四十古蹟部 人物

 

◇謂波多八代宿禰 

 林戸郷謂波多八代宿禰の胤林臣受レ封ノ處盖し是か。三枝系図による林部之介守の党の事は人物部に出つ。 

 

◇矢作部宅雄                                                                              

軍団跡 貞観14年( 872 )甲斐国都留郡大領外正六位上 甲斐国都留郡少領 

 

◇三枝守国

 軍団跡 承和中(834~847)仁明帝、本州野呂に左遷する。(三枝系図) 

 

平将門  

 上岩崎村 天慶中(938~947)平将門下総国猿島郡岩井郷に據りて謀反し、自号平親王誅に伏して後残党諸州に沈落して止まり居る處を自ら岩井郷と称せり。

 

◇古郷左衛門 

 坂東山 建保5年(1217)五月四日、古郷左衛門兄弟於甲斐国坂東山波加利之東競石郷二木自殺矣(東艦)みさかかた山つるばんとう(曽我物語)鎌倉へ出仕の道すじを云う趣なり。或いは篠山即ち坂東山なりと云々 

 

◇波多八代宿禰   

 八代郷 景行天皇25年(95)秋七月、遺武内宿禰令察二北陸及び東方諸国之地形且百姓之消息也。

『日本記』27年(97)春二月、武内宿禰自東国還之云々

『日本記』建内宿禰の子有波多八代宿禰波多臣、林臣、波美臣、長谷部の君等祖。 

古事記』又許勢小柄の宿禰あり許勢臣、雀臣、等之祖。(以上の姓氏皆本州に據りて出しと見ゆ。各其條に詳にす.

 

◇波多(秦)                            

 秦氏所貢絹綿軟於肌膚故訓秦字謂之波陀と見えて機織の事に通す。本郡に又蠶絲に名あり。『古語拾遺』                                             

◇伴直眞貞   

 八代郷 貞観  七年(865)八代郡擬大領 富士浅間神霊の事を載せる。

 

◇伴 秋吉                                    

 郡人  『残簡風土記

信濃御牧及び貢馬 永仁三年(1295)~天正十六年(1588)

信濃御牧及び貢馬 永仁三年(1295)~天正十六年(1588)   信濃の貢馬を諸記録から抽出してみると、これまでに書されている内容より長い期間であったことが分かる。  信=信濃諸牧 霧=霧原御牧 望=望月御牧 新=新治御牧  穂=甲斐穂坂 真=甲斐真衣野 甲=甲斐真衣野・柏前  武=武蔵諸牧 秩=武蔵秩父 立=武蔵立野牧  上=上野諸牧 陸=陸奥交易御馬  参考文献     平戸 永楽=永楽元年  応仁=応仁廣記  辨内 官公=官公事抄  成宗=成宗上洛日記  岡屋=岡屋関白記 愚管=愚管抄  室町=室町家御内書案  新抄=新抄 兼敦=兼敦記  御随=御随身三上記  続史=続史愚抄 山科=山科家禮記  朝倉=朝倉始末記  文永=文永代始公事 康富=康富記  信長=信長公記  光厳光厳院日記 薩戒=薩戒記  名将=名将言行録  皇帝=皇帝記抄 公名=公名公記  秋田=秋田統系図  吾妻=吾妻鏡 看聞=看聞御記  総見=総見記  東鑑=東鑑 後法=後法興院記  松隣=松隣夜話上  鶴岡=鶴岡社務記録 迎陽=迎陽記  甲陽=甲陽軍艦  仁和=仁和寺日次記 康暦=康暦二年愚記  貞山=貞山公治記録  常盤=常磐井相国記 教言=教言卿記  託摩=託摩文書 満月=満月准后日記  中院=中院一品記 薩凉=薩凉軒日記  園大=園大暦 満濟=満濟准后日記  松亞=松亞記 集古=集古文書  祇園祇園執行日記 内宮=内宮引付  花栄=花営三代記 大乗=大乗院寺社雑事記  後深=後深心院記 鹿児=鹿児島畜産史  太平=太平記 諏訪=下諏訪神社文書  馬匹馬匹管見 市河=市河文書  善隣=善隣国実記 斎藤=斎藤親基日記    永仁三年(1295)~ 牧 和暦 西暦 月 日 行事 記事 出典 信 永仁 三年 1295 8月16日 駒牽 信濃国勅旨諸牧。 続史 貢 永仁 三年 1295 11月28日 貢馬 二十八日・二十九日有貢馬御覧。続史 信 乾元 元年 1302 8月16日 駒牽 信濃国勅旨諸牧。続史 貢 嘉元 二年 1304 12月 2日 貢馬 於、一院御所(二条殿)有貢馬御覧。 続史 貢 嘉元 二年 1304 12月 4日 貢馬 法皇北山第、又被覧貢馬。続史 貢 嘉元 三年 1305 12月 2日 貢馬 於、一院御所(二条殿)有貢馬御覧。 続史 貢 嘉元 三年 1305 12月 3日 貢馬 御覧。 信 徳治 二年 1307 8月16日 駒牽 信濃国勅旨諸牧。 続史 信 延慶 元年 1308  8月16日 駒牽 信濃国勅旨諸牧。続史 信 延慶 二年 1309 8月16日 駒牽 信濃国勅旨諸牧。 続史 貢 延慶 二年 1309 11月26日 貢馬 於、院有貢馬御覧。続史 貢 延慶 二年 1309 11月27日 貢馬 於、院有貢馬御覧。続史 信 正和 四年 1315 8月16日 駒牽 信濃国勅旨諸牧。続史 信 元享 二年 1321 8月16日 駒牽 信濃国勅旨諸牧。続史 貢 正中 元年 1324 11月23日 貢馬 於、仁寿殿有貢馬叡覧。 続史 貢 正中 元年 1324 11月24日 貢馬 貢馬御覧。 続史 信 嘉暦 元年 1326 8月16日 駒牽 信濃国勅旨諸牧。 続史 牽 元徳 二年 1330 8月16日 駒牽 辨不参列。 師守 貢 元弘 元年 1331 12月 2日 貢馬 今日内々御馬御覧。 光厳 牽 正慶 元年 1332 8月16日 駒牽 辨不参列。 師守 牽 暦応 元年 1338 8月16日 駒牽 辨不参列。 師守 牽 延元 四年 1339 8月16日 駒牽 駒牽。云々 中院 貢 延元 四年 1339 12月11日 貢馬 今日於武家有貢馬整。足利尊氏貢馬を覧る。 師守 貢 延元 四年 1339 12月15日 貢馬 今日武家第被乗貢馬云々。足利尊氏貢馬を覧る。 師守 延 興国 元年 1340 8月15日 駒牽 延引、明日駒引依御馬未到。 中院 貢 興国 四年 1343 12月24日 貢馬 貢馬今日於三条殿被乗云々。 祇園 貢 興国 四年 1343 12月25日 貢馬 貢馬今日進公家云々 祇園 牽 興国 五年 1344 8月12日 駒牽 近年不法、厳密可申沙汰之由、被仰下云々。今夜駒牽。云々 園大 貢 興国 五年 1344 12月21日 貢馬 幕府、持明院殿に貢馬を進る。 園大 貢 興国 六年 1345 6月15日 貢馬 去年貢馬御覧。予預七黒引進了。園大 牽 興国 六年 1345 8月16日 駒牽 今日駒牽。 園大 牽 正平 元年 1346 8月12日 駒牽 駒牽事。五六疋可進。云々 園大 牽 正平 元年 1346 8月16日 駒牽 今日駒牽也。寮務の分六匹云々 園大 貢 正平 元年 1346 12月24日 貢馬 今日武家進貢馬云々。御厩 栗毛 武蔵守 園大     西園寺三位中将預 鹿毛 佐々木近江入道(跡)   勤修寺前大納言預 鴾毛 越後守   式部卿宮御預 河原毛 上総入道(跡)   竹林院大納言預 鴾毛 弾正少弼   中園殿預 鹿毛 伊豆守   一条三位中務預 栗毛 信濃民部入道(跡)   師預 鹿毛 修理大夫   関白殿預 栗毛駮 小山下野入道(跡)   御厩 河原毛 仁木右馬権助 貢 正平 元年 1346 12月25日 貢馬 於、院覧武家進貢馬云々。 続史 牽 正平 二年 1347 8月16日 駒牽 今日駒牽也。御馬任近年之例、疋献之、国主三匹献之云々。 園大 延 正平 四年 1349 8月16日 駒牽 延引、今夜駒牽分配(略)不到来仍度々雖被仰武家不事行之間、令延引云々。松亞 牽 正平 四年 1349 8月19日 駒牽 今日駒牽也。寮家駒五疋進之、先々式六疋進之、云々 園大 貢 正平 七年 1352 12月30日 貢馬 今日貢馬引進。 園大 献 正平 七年 1352(年不詳、掲載) 献馬 武家より貢馬十匹、別進貢馬三十匹。 太平 献 正平 九年 1354 10月 献馬 南部信長、義良親王に駿馬及び馬引鷹を献ず。 牽 正平 十年 1355 8月17日 駒牽 今日聞、駒牽、依信州合戦不及沙汰上之由、馬所注進到来云々。 園大   牽 正平 十年 1355 8月25日 駒牽 今日有駒牽事、云々 園大 延 正平十一年 1356 8月16日 延引 駒牽延引、今日駒牽延引、御馬不到来。 園大 延文 元年 1356 10月9日 貢馬 足利義詮信濃守小笠原氏に貢馬を徴す。  貢馬一疋事 相催遠光(加賀美)跡庶子等、任例可致沙汰状如件。 延文元年十月九日  小笠原兵庫頭跡 (勝山小笠原家古文書) 献 正平十一年 1356 10月24日  献馬 関東より名馬を義詮に献ず。 園大 貢 正平十一年 1356 12月28日     貢馬御覧。 続史 延 正平十二年 1357 8月16日     駒牽延引、駒牽無沙汰、馬不到故也。 続史     貢 正平十二年 1357 12月28日 貢馬 武家今日進貢馬云々。 園大 賜 正平廿一年 1366 9月23日 献馬 高麗の使者に鞍馬十匹を贈る。 南山 駒 正平廿二年 1367 8月16日     駒牽延引、今日駒牽延引歟。 師守 駒 正平廿二年 1367 9月9日 駒牽 駒牽を追行す。 師守  信濃、岡屋御牧・辰野御牧 牧 貞治 六年 1367 4月13日 岡屋 辰野両牧は駒牽役等を免除。 諏訪 牽 貞治 六年 1367 8月16日 駒牽 運送信濃国望月御牧御馬事。壹疋黒鹿毛(外九疋)右依例望月 御馬運送如件。史料   牧 貞治 七年 1368 3月27日 寄田野牧、島津師久寄田野牧を新田八幡宮司に賜ふ。鹿児 献 正平廿三年 1368 6月27日 献馬 前左大臣近衛道嗣馬を上皇に献。愚管 建徳 元年 1369   信濃守小笠原長基 幕府の命を市河頼房に伝えて、御牧南条内五ケ村を軍糧料に充てる。市河 延 建徳 二年 1370 8月16日     駒牽延引。 続史   令 文中 元年 1372 11月21日     牛馬の尾を切る事を禁ず。 花営 牽 文中 二年 1373 9月26日 駒牽 有駒牽。 官公 貢 文中 三年 1374 12月25日     貢馬叡覧。 花営 貢 天授 元年 1375 10月26日 貢馬 武家今日進貢馬云々。 後深 貢 天授 二年 1376 12月27日 貢馬 一番~十番 花営 牧 天授 四年 1378 2月6日     坂戸牧。前関白近衛道嗣其采邑河内坂戸牧を三寳院僧正光濟に附与。 愚管 貢 天授 四年 1378 12月29日 貢馬 自武家貢馬進之云々、例年事也。後愚 牽 天授 五年 1379 8月16日 駒牽 今夜駒牽。 愚管 貢 天授 五年 1379 12月27日 貢馬 貢馬次第、一番~十番。 花営 貢 天授 六年 1380 12月27日 貢馬 御覧、後圓融院貢馬叡覧。 迎陽 献 弘和 元年 1381 3月16日 献馬 足利義満、馬を献ず。 続史 貢 弘和 元年 1381 12月27日 貢馬 今夜武家進貢馬。 愚管 貢 弘和 二年 1382 12月29日 貢馬 武家貢馬有叡覧。 続史 延 弘和 三年 1383 8月16日     駒牽延引、記事略。 続史  信濃国岡屋、辰野御牧 牧 至徳 二年 1385  6月25日     信濃国諏訪領下宮社頭岡屋、辰野御牧事、 依為神領自寮家御牧牽ノ役並国役ノ雑事被免除、社家反證之状明鏡也。  信濃国常盤ノ御牧   嘉慶 元年 1387 (信濃国)    水内郡常盤ノ御牧云々  信濃水内郡常盤、中条、中曽根郷内水内郡常盤ノ御牧、 内布施田郷常盤ノ御牧、北戸狩郷  「信濃古牧考」    今日の下水内郡柳原村飯山町秋津村外様、常盤村。 大田村の四ケ村の跨ぐ牧場であったという。 延 元中 六年 1389 8月16日 駒牽延引、記事略。 続史 延 明徳 四年 1393 8月16日 駒牽延引、記事略。 続史 令 応永 二年 1396 5月9日 馬の血取を禁ずる。 鶴岡 駒 応永 五年 1398 8月16日 駒牽、記事略。 続史 貢 応永 五年 1398 12月27日 貢馬御覧、武家及公卿関白師嗣以下進上。有叡覧。 康暦 牽 応永 六年 1399 8月16日 駒牽 記事略。 続史 牽 応永 七年 1401 8月16日 駒牽 記事略。 兼敦 延 応永 八年 1401 8月16日 駒牽 延引、記事略。 迎陽 贈 応永 八年 1401 8月 贈馬 足利義満、明国王に馬十匹等贈。善隣 贈 応永 十年 1403 2月 贈馬 足利義満明王に生馬廿匹等贈。永楽 牧 応永 十年 1403 6月17日 伯耆国大山寺西明院雑掌申、同国久古ノ御牧、 地頭職事早任今月十七日御教書の旨可沙汰付雑掌之状如件。 集古        貢 応永十三年 1406 12月29日 貢馬叡覧、十疋。  教言       (一)北山殿  (二)室町殿    (三)右馬寮  (四)藤中納言    (五)日野中納言(六)左馬寮    (七)御厩   (八)関白    (九)日野一位入道(十)日野大納言入道 牽 応永十四年 1407 8月16日 駒牽 記事略。 続史 賜 応永十五年 1408 4月23日 賜馬 将軍馬を伶人景秀に給ふ。 後鑑 貢 応永十五年 1408 12月27日 貢馬 武家貢馬、伝奏日野大納言。 続史 牽 応永十九年 1412 8月16日 駒牽 記事略。 山科 貢 応永十九年 1412 12月27日 貢馬 貢馬如例年。 後鑑 覧 応永廿二年 1415 10月25日 貢馬 御覧、上皇貢馬を覧る。 兼宣 牽 応永廿三年 1416 8月16日 駒牽 記事略。 続史 牽 応永廿四年 1417 8月16日 駒牽 記事略。 康富     覧 応永廿四年 1417 12月29日 貢馬 御覧、今夜貢馬御覧。馬百疋。 看聞 献 応永廿五年 1418 8月10日 献馬 関東大名南部上洛、馬百匹。 看聞金千両室町殿へ献之云々 牽 応永廿五年 1418 8月16日 駒牽  記事略。 続史 覧 応永廿五年 1418 12月28日 貢馬 御覧、赤松所遣第七貢馬強馬也。 看聞 覧 応永廿六年 1419 12月27日 貢馬 御覧、武家貢馬院有御覧。 続史 牽 応永廿九年 1422 8月16日 駒牽 記事略。 薩戒 覧 応永廿九年 1422 12月26日 貢馬 御覧、参院貢馬拝見之。 兼宣 献 応永三十年 1423 4月7日 献馬 安藤陸奥守、献馬廿匹。他。 後鑑 牽 応永三十年 1423 8月16日 駒牽 記事略。 薩戒 牽 応永卅一年 1424 8月16日 駒牽 記事略。 薩戒 献 応永卅一年 1424 12月3日 献馬 陸奥斯波左京大夫献馬、三匹。 後鑑 覧 応永卅一年 1424 12月27日 貢馬 御覧、今夜貢馬御覧也。 看聞 牽 応永卅二年 1425 8月16日 駒牽 記事略。 薩戒 牽 応永卅三年 1426 8月16日 駒牽 記事略。 薩戒 牽 永享 元年 1429 8月16日 駒牽 記事略。 薩戒 献 永享 元年 1429 12月2日 献馬 左兵衛佐、献馬二匹。 後鑑 献 永享 元年 1429 12月2日 献馬 白河弾正少弼、献馬一匹。 後鑑 駒 永享 二年 1430 8月16日 駒牽 記事略。 師守 覧 永享 二年 1430 10月14日 貢馬 御覧、今夜貢馬御覧。明日女騎御覧。 看聞 貢 永享 二年 1430 10月14日 貢馬 十匹。 薩戒 覧 永享 三年 1431 12月27日 貢馬 御覧、室町殿参内、今夜貢馬御覧。 看聞 牽 永享 四年 1432 8月16日 駒牽 記事略。 公名 覧 永享 四年 1432 12月27日 貢馬 御覧、今夜貢馬御覧。 看聞 覧 永享 五年 1433 1月14日 貢馬 御覧。 満月 献 永享 五年 1433 3月18日 献馬 去年室町殿富士下向、御贈物、馬廿疋、金被進云々。 看聞 牽 永享 五年 1433 8月16日 駒牽 記事略。 康富 贈 永享 五年 1433 1月10日 贈馬 足利義持、明国王に馬廿匹等贈。善隣 覧 永享 五年 1433 12月27日 貢馬 御覧、貢馬御覧也。 看聞 牽 永享 六年 1434 8月16日 駒牽 記事略。 康富 覧 永享 六年 1434 12月27日 貢馬 御覧、被引貢馬於東庭、有叡覧。 続史 老 永享 七年 1435 1月26日 上杉安房守、献上希代の老馬。    御厩三間八十三才に成御馬一匹在之去年上杉安房守進之云々。希代年齢也。 満濟 献 永享 七年 1435 11月27日 献馬 関東ノ事物言屬無為、御馬数十被進。 史料 覧 永享 八年 1436 12月27日 貢馬 御覧、今夜貢馬御覧。室町殿参内。 看聞 牽 永享 九年 1437 8月16日 駒牽、記事略。 続史 覧 永享 九年 1437 12月27日 貢馬 御覧、今夜貢馬御覧如例。 看聞 覧 永享 十年 1438 12月27日 貢馬 御覧、今夜貢馬御覧如例。 後鑑 賜 永享十一年 1439閏 1月17日 賜馬、内裡より幕府へ馬を賜はる。後鑑 覧 嘉吉 二年 1442 12月27日 貢馬 御覧、貢馬奏覧。 後鑑 覧 嘉吉 三年 1443 12月27日 貢馬 御覧。看聞 牽 文安 元年 1444 8月16日 駒牽 記事略。 康富 牽 文安 三年 1446 8月16日 駒牽 記事略。 師卿 覧 文安 三年 1446 12月27日 貢馬 御覧、今日貢馬御覧如例。 師卿 牽 文安 五年 1448 8月16日 駒牽 記事略。 康富 牽 宝徳 元年 1449 8月16日 駒牽 記事略。 看聞 覧 宝徳 元年 1449 12月27日 貢馬 御覧、今夜貢馬御覧如例。 康富 牽 宝徳 二年 1450 8月16日 駒牽 記事略。 康富 贈 宝徳 三年 1451 6月18日 贈馬 足利義政、明国王に馬廿匹等贈。 善隣 牽 宝徳 三年 1451 8月16日 駒牽 記事略。 康富 覧 宝徳 三年 1451 12月27日 貢馬 御覧、今夜貢馬御覧如例。 康富 牽 享徳 元年 1452  8月16日 駒牽 記事略。 続史   輸入馬七十匹 輸 享徳 二年 1453 10月18日 輸入 馬、朝参致賜(略)韃靼人来朝、御馬七十匹。 (入唐記) 牽 享徳 三年 1454 8月16日  駒牽 記事略。輸入馬百匹 康富 輸 享徳 三年 1454 輸入 馬、奥州田名郡領主蠣崎信縄、蒙古韃靼に人を派して馬数百匹を輸入する。   (南部産馬由緒考) 覧 享徳 三年 1454 12月27日 貢馬御覧、今日貢馬御覧如例。 師卿 牽 康正 元年 1455 8月16日 駒牽、記事略。 続史 覧 康正 元年 1455 12月27日 貢馬御覧、有貢馬御覧。 続史 牽 康正 二年 1456 8月16日 駒牽、記事略。 師卿   輸入馬千匹 輸 康正 年間(1455~56) 輸入馬、階上郡八戸領南部氏、露国より牛馬千余頭を輸入。(東北太平記) 牽 長禄 元年 1457 8月16日  駒牽、記事略。 続史 牽 長禄 三年 1459 8月16日 駒牽、記事略。 続史 覧 寛正 二年 1461 12月27日 貢馬御覧、今日雪也。與貢馬御成。 薩凉 覧 寛正 三年 1462 12月27日 貢馬御覧、今日貢馬之御成。云々。 薩凉 献 寛正 四年 1463 9月28日 献馬、結城直朝、御馬廿匹。 後鑑 献 寛正 四年 1463 10月4日 献馬、大宝寺成秀、御馬十匹。 薩凉 覧 寛正 四年 1463 12月27日 貢馬御覧、渡管領亭(細川勝元)依貢馬及初雪也。 後鑑 貢 寛正 五年 1464 12月27日 貢馬御覧、晩来管領御成(畠山政長) 薩凉 献 寛正 六年 1465 3月5日 献馬、甲州武田五郎源信昌、大長ノ御馬、三月六日京着。 親元  3月15日 献馬、小野寺讃岐守馬を幕府に献ず。御馬四匹。 後鑑 9月 2日 献馬、大宝寺出羽守、御馬一匹。 後鑑 貢 寛正 六年 1465 12月29日 貢馬御覧、管領御成。 後鑑 牽 文正 元年 1466 8月16日 駒牽、記事略。後法 献 応仁 元年 1467 1月20日 献馬、斯波義廉、献馬一匹。 斎藤 7月10日 献馬、美濃国斎藤妙椿、御馬一匹。 応仁 牧 文明 元年 1469 伊勢佐八御牧をして神供を備進せしむ。内宮 牧 文明 九年 1477 9月6日 幕府、丹波守護代内藤元貞に命じて被官人等の料所、 同国桐野牧河内村社領を違亂るを停めしむ。 古文  将軍又は幕府への献上馬(その馬の毛付と下印を記入する)  献 文明 十年 1478 3月10日 献馬、一色左京大夫義直、御馬一匹。 親元 献 文明 十年 1478 7月16日 献馬、芦名盛政、献馬三匹。 親元 献 文明 十年 1478 8月23日  献馬、伊勢八郎貞職、御馬三匹。 親元  献 文明 十年 1478 8月26日  献馬、朝倉氏景、献馬二匹。 親元  献 文明 十年 1478 9月1日  献馬、畠山左衛門佐義統、御馬三匹。 親元  献 文明 十年 1478 10月2日  献馬、大宝寺信濃守氏雄、御馬二匹。 親元  献 文明十二年 1480 4月10日  献馬、富樫介政親、御馬二匹。 親元  献 文明十三年 1481 1月23日  献馬、土岐成頼、御馬一匹。 親元  献 文明十三年 1481 6月19日  献馬、朝倉孝景、御馬二匹。 親元  献 文明十三年 1481 7月4日  献馬、伊勢貞宗、御馬二匹。 親元  献 文明十三年 1481 7月27日  献馬、土岐成頼、御馬三匹。 親元  献 文明十三年 1481 7月27日  献馬、持是妙純、御馬二匹。 親元    文明十三年 1481   朝倉敏景が家臣の奢りを戒めて仙台馬を斥けた。 朝倉     献 文明十四年 1482 3月12日  献馬、武田治部少輔信親、御馬一匹。 親元  献 文明十四年 1482 8月26日  献馬、伊勢因幡守、御馬一匹。 親元  献 文明十五年 1482 1月19日  献馬、土岐成頼、御馬一匹。 親元  献 文明十五年 1482 7月4日  献馬、細川淡路守成春、御馬一匹。 親元  献 文明十五年 1482 9月17日  献馬、土岐成頼、御馬二匹。 親元  献 文明十五年 1482 10月10日  献馬、伊達成宗義尚・義政に御馬。 成宗   東山御所様 御馬廿匹。   若君様 御馬廿匹。   細川様 御馬十匹。   典厩様 御馬五匹。   伊勢殿 馬三匹。  馬市の開設  毎月五日、十五日、二十五日、三ケ度 大乗 市 文明十七年 1485 7月5日  元興寺南大門前馬市立初之、古市澄胤之所行也。 献 文亀 三年 1503 5月19日  献馬、上杉民部大輔、御馬一匹。 室町 献 永正 三年 1506 3月   献馬、京極中務少輔入道、御馬一匹。 室町 献 永正 九年 1512 3月10日  献馬、畠山匠作御馬二匹。 御随 献 永正 九年 1512 3月24日  献馬、大内左京兆御馬四匹。 御随 献 永正 九年 1512 4月13日  献馬、美濃御馬進上、房州御馬進上。 御随 献 永正 九年 1512 6月14日  献馬、畠山匠作御馬四匹。 御随 献 永正 九年 1512 6月26日  献馬、朝倉代始御馬進上。 御随 献 永正十六年 1519 8月21日  献馬、高梨摂津守、馬二匹進上。 室町 献 永正十六年 1519 11月3日  献馬、今川修理大夫、馬二匹進上。 室町 献 天文 九年 1540 8月1日  献馬、朝倉弾正左衛門入道、馬一匹。 室町 贈 天文二十年 1551 1月上旬  贈馬、信長、百牧ノ二疋鞍馬を武田信玄に贈る。 松隣     参考  武田信玄と馬   武田信虎の馬-甲州ノ源府君武田信虎公、秘蔵ノ鹿葦毛ノ長八寸八分ニシテ其甲陽肝、 形例ハヘ昔「朝公ノ生 、摺ル墨ニモサノミオトラヌトテ、近国迄申ナラハセバ、 鬼鹿毛トモ名付、嫡子(信玄)所望ナレドモ相違無ク進ゼラルベキ覚悟ニアラズ。云々   信玄の相馬法 凡大将ノ馬ヲ選ブニ心得アルベニヤ、甲斐ノ武田ニテ米沢ト云シモノ、 奥ニ行テ馬ヲ求ムル時、信玄一首和歌ヲ書テ與フテ曰ク、 上かんの中かんこそは大将の乗るべき馬と知れやものゝふ 信玄五十匹ノ馬ノ中ニ乗ラレシ馬ハ四足栗毛、中段ニテ唯二匹アリ、 甲斐山梨郡トシ野トイフ所ノ百姓、此四足ヲ養ヒ置シヲ米澤見テ又ナキ馬ナリトテ、 信玄ニ申シテ五十貫ノ地ヲ與ヘテ此馬ヲ信玄ニ奉リヌ云々。   贈 弘治 二年 1556   贈馬、柳原兵部、良馬を献る。この馬嵐鹿毛を家康が室町将軍義輝に贈る。 徳川      献 永禄 四年 1561   献馬、三好義長進上、馬一匹。 三好 贈 永禄11年 1568   贈馬、信玄公より信長へ御馬十匹。 甲陽  信長御曹司城之介へ御馬十一匹。 織田信長と馬  名将 信長自讃三アリ、 第一ハ奥州ヨリ献シタル白譜ノ鷹、是希世之逸物也、 第二青ノ馬、是ハ如何ナル砂浜石原ヲ乗テモ傾クコトナシ、龍馬トモイフベキ也、 第三長康(森蘭丸)忠孝世ニ知ル所、此三ツ勝レタル秘蔵ノ由常ニ言ハレシトゾ。 献 天正 三年 1575 10月19日  献馬、奥州伊達方より名馬ガンゼキ黒、白石鹿毛御馬二疋竝に鶴取之御鷹二足進上、(略) 比類なき駿馬秘蔵是は龍の子なり。信長  献 天正 四年 1576   献馬、安東愛季、馬を信長に献ず。南部縫殿助献馬鷹於信長、 自是毎年如斯、信長公喜毎年賜書刀、秋田 献 天正 七年 1579 4月   献馬、関東常陸国多賀谷修理亮朝宗、星河原毛ノ御馬云々。総見      献 天正 七年 1579 7月16日  献馬、家康より坂井左衛門尉御使とし、 御馬進上。 信長    献 天正 七年 1579 7月18日  献馬、出羽大宝寺より駿馬五ツ云々  信長 献 天正 七年 1579 10月29日  献馬、神保越中守黒芦毛御馬進上。 信長 献 天正 八年 1580 3月1日  献馬、加藤彦左衛門、佐目毛御馬進上。信長 献 天正 八年 1580 3月29日  献馬、北条氏政より御鷹十三足、御馬五疋洛中本能寺にて進上。 信長 献   閏3月10日  献馬、宇都宮貞林、御馬牽進上。 信長 献 天正 八年 1580 4月11日  献馬、神保越中守御馬二ツ進上。 信長 献 天正 九年 1581 3月12日  献馬、神保越中守御馬九ツ進上。 信長 献 天正 九年 1581 6月5日  献馬、北条氏政御馬三ツ進上。 信長 贈 天正 九年 1581 7月17日  贈馬、信長、岐阜中将信忠へ御秘蔵の雲雀毛御馬被参候。云々 信長 献 天正 九年 1581 7月20日  献馬、出羽大宝寺御馬進上。 信長 献 天正 九年 1581 8月6日  献馬、会津の屋形モリタカ奥州の名馬を信長に進上する。 信長 献 天正 九年 1581 8月14日  献馬、信長、御秘蔵御馬三疋、羽柴筑前カタへ被遣候。 信長 献 天正 九年 1581 10月29日  献馬、越中ヨリ黒部タチノ御馬當歳二歳ヲ初として十九疋、佐々内蔵介牽上進上也。信長 献 天正 九年 1581 11月1日  献馬、関東下野国蜷川郷、長沼山城守名馬三ツ進上。 信長 献 天正十六年 1588 3月1日 献馬、 仙台御馬、二匹秀吉に献ずる。 貞山

関東大震災記(山梨の記録一部掲載) 貴重な記録

関東大震災記(山梨の記録一部掲載) 貴重な記録

村松昌氏著『伊那』1985,6月号(一部加筆)

 

私は偶然、大正十二年九月一日、現在の太田区大森で和洋紙販売を営んでいた今村勝氏の妻が姉で、女中さんに行く娘を連れて自宅を午前四時頃出発した。堀割坂で猛烈な其処へ朝夕立に出逢い閉口したが忽ち止み飯田駅午前六時頃発の一番列車に乗車した。

当時は急行も無く、各駅停車で辰野で乗り換え、座席も取れ、先ずは一安心した。早朝の起麻で疲れたのか、

「上京の上は半月位姉や木挽町の次兄宅を宿にして遊び廻わり先ず浅草六区の活動写真、寄席の落語、芝浦球場での秋期三田稲門戦見学等、それに彼の美味の天井を……」

とウツラウツラと呑気な事を考え乍ら居眠りしていた。

「長坂駅」

やがて中央線長坂駅に到着するや駅員や駅前商店の人々が血相を変えて飛び出している。ホームは崩壊し人々が右往左往しているので初めて大地震があったのだと大騒ぎとなった。時将に十一時五十八分であった。

甲府駅塩山駅

其の後、汽車は徐行を続け甲府駅で暫らく停車し塩山駅迄進行したが、情報に依れば笹子トンネルが壊滅し、汽車乗客共に埋没し、これ以上、先方へは行けないとの事で止むを得ず下車、駅前通りの宿屋へ行ったが、泊まれるどころか宿屋の人々は駅前広場ヘテントを張り逃げ込んでいる有様。致仕方なく既に夕闇み迫ったので、夕食代わりに食パン、ローソク等を買い求め野宿を覚悟したが、駅の厚意で駐車中の空貨物に入り一夜をローソクの灯で明かした。時折、大小の余震が来襲し貨物がガタンガタンと揺れたり物凄い地鳴りや無気味な突風が吹き眠れる様なものではなかった。

遥か東方の空は真赤で東京は大火災、入京は不可能と覚悟した。翌九月二日、駅長の東海道儀は静岡迄僅かに信越線のみ川口駅迄行けるとの報告で直ちに反転した。

辰野駅で娘さんに-時帰宅せよと下車させ、八幡の満寿徳店へも事情を話して呉れと頼み、私は松本駅で途中下車し入京には食糧持参第一と駅弁拾個とパンを購入した。松本市内には腰の鈴を鳴らした号外売りが、東京は大火、殆ど全滅、死者多数、暴徒蜂起・戒厳令布告、となっていた。再び乗車したが、車中は出張等で、西に居たのが関乗大震災で実家の安否を案じ、急速帰京の人々で超満員、身動きも出来ず弁当を抱きかかえたまま立ちん坊で、九月三日未明、川口駅に下車した。

途中、高崎とか大宮とかの大駅には下り汽車に焼け出された着のみ着のままの市民が避難するのか、これ又超満員だ。停車し汽車の交換の一寸の時間に我々の汽車の客は一斉に窓際に身体を半分乗り出して下り汽車の客に大声で「日本橋」「浅草は」「品川は」と祈るような目差しで尋ねたが、「全滅だ」「火の海だ」との答えに偶然とした。又各駅ホームには既に朝鮮人狩の指令に依るのか在郷軍人及び自警団員が武器を片手に乗り込んで来た。 

顔型や日本語の発音の変な奴を車外に曳きずり出し、何処かへ連行するのを五、六ヶ所で見たが肌寒くなり無気味な情景であった。

 私は東京へは二、三回中央線で入京しているが信越線では初めてで不案内だ。まだ薄暗いので、とにかく乗客の行く方へついて行ったが、何時かバラバラになってしまった。荒川の鉄橋が破壊されているので渡舟で対岸の堤防上に出ると、突如「止まれ」と数人の銃着剣、あご紐姿の兵に尋問された。入京の目的を答えて許可を得たが、本当に胸がドキドキして戒鞍令とは怖いものだと知った。鉄路を頼りに日暮里鴬谷を通る。途中、要所には歩哨の監視人、被災者が絶えることもなく続くのに逢うのだった。一人の知人、友人も無く入京することに不安と心細さを感じ帰郷をと考えたことも再三あったが、遂に上野へ到着した。朝の八時頃だった。

既に一日正午頃から二日終日燃えたのだから、三日朝なら一応鎮火していると考えて上野広小路へ出たが、松坂屋百貨店周辺は猛烈な火烙に包まれ延焼中で人影なく放棄されたままであった。

私の行先幹線大道路は電線が焼け落ち蜘蛛の糸の様に垂れ下がり、電車、大八荷車が列をつくって残骸をさらしていた。

其の中を鼻口を手拭いで塞ぎ煙を除け乍ら踏み越え飛び越え右側を通ったり左側に変ったり大廻りして日本橋辺りに来た。異様な悪臭が鼻を突くので川を見ると逃げ遅れた焼死者で哀れ無残な姿には止め処なく涙が出た。道路の両側彼の柳の銀座通りも礫の河原同然、焼け瓦、焼けトタンの連続で、金庫が黒焦げで立っていたが佗しい物だった。次兄の住宅、京橋木挽町も築地も、焼け野原で無事に家族が逃げて呉れたことを念じつつ歩き続けた。この幹線道路は流石に人通りが多く板やボール紙に移転先は何処とか又は不明の家族名を書いたのを高く揚げ往来していたが不思議なことに巡査や軍人の姿がなく、全くの無警察状態で、彼の有名な天賞堂とか村松貴金属店の焼け跡には人相の悪い浮浪人が黒山の様になって何か掘ったり探していた。午後二時頃、夕立が来たが逃げ場所がないので焼けトタンを頭上に乗せ雨を除けつつ歩いた。通行人に大森はと尋ねたが、皆自分の事で頭が一杯で大津波にやられてあと形もないとか、朝鮮人に焼打されたとかの返事のみだ。私も次兄の家が焼失した事は判明しているので頼りは姉の家のみで、万一津波で流出したなら直ぐ又上野迄引返し帰郷せねばならないので、松本駅での弁当は無事だと判明する迄、一個も食べられないと覚悟した。品川辺り迄来た頃は家屋も流失せず店舗もあるし大森も大丈夫と聞き、安心したか元気が急に出だした。

 大井、大森の海岸通り、松並木や数多い砂風呂料亭前を過ぎた。停車場通りへ出た時、二、三人の学生か青年が頭に鉢巻、肩には白地布に九州男子と書いた簿を斜に「日本男子よ、奮起せよ、朝鮮人を直ちに抹殺せよ」と大声でアジ演説をやっており、手には日本刀の抜身を高くかざしている有様は勇ましい限りであった。

午後四時頃なので太陽は頭上に輝いて白刃はピカピカ光り、ふと時代劇の京洛の巻かと錯覚を起こす。殺気立った有様で暫くの間唖然とした。

 間もなく姉宅へ辿り着き家族の無事を喜び安心したが、屋根の瓦は大半落ち、二階の壁も散乱し大変なものだ。近所の家も大同小異の被害であった。先ず松本駅で購入した弁当を食べ様と開けた所、みな連日の猛暑で腐敗していて一個も食べずじまいになった。又座敷の中央に風呂敷包みが置いてあるので何だと聞いたら地震もまだ大きいのが来るし、川崎市の工事場に朝鮮人が三千人程居て、何時襲撃して来るかもわからない。又は放火されたらお前は一番に風呂敷包み六個の内持てるだけ持って逃げて呉れと言われた。そんな馬鹿なことと思ったが夜になって実感した。電気・ガスが駄目なのでローソクで居た。余震の強いのが来て真っ暗闇の表通りへ其の度に飛び出す。

 其の内に先ず警鐘が乱打され自警団の人々が彼方だ、此方だと駈け廻り、今、朝鮮人が路地へ逃げたとか、白衣の人間が井戸を覗いていたとかで、槍、銃を持ち、血相変えて探索する。気のせいか発砲の音がする。其れに拍車を掛ける様に横須賀の巡洋艦が二、三隻東京湾に錨を下して一〇時頃、大森の沖の方面から大森、大井、品川方面や房総方へ海岸沿いに探照燈をグルグル廻転さして警戒する。まるで戦争騒ぎで、信州の山の中から来た田舎者の私は見ること聞くこと驚くことばかり。今夜はゆっくり安眠出来ると敵ったが、臥床どころではなかった。悪夢の様な一夜を大森名物蚊に刺され乍ら、うつらうつらで夜が明け表通りの店先で焜炉と釜で米を焚いた。水は附近の井戸の尊い水だ。

 翌四日から店主今村氏に代わり私が自警団員となり竹槍を持ち、通行人を監視した。昼間は東京、横浜の間なので行方不明、焼死の安否、転居先探し等で炎天下往来は混雑を極めた。立ちん棒での疲れが出ると交替で机に腰掛けて配給の玄米を持参した一升瓶へ入れ棒でつついて白米を製造していたが流石に夜間になると人の往来は少なくなる。

 四日、五日、六日位、毎晩同じ様に警鐘の乱打怒声を張りあげ乍ら馳駆する自警団眉、軍艦の探照燈は蟻一匹も海岸を通さじと物凄く照す。又伝令で朝鮮人が愈々川崎を出て蒲田迄来襲したから必ず大森の女、子供は室内に居れ、其れに社会主義者が先頭になり彼等を煽動鼓舞しているとか、町中が懐恰たる気分になる。後日、判明した事だが流言飛語の恐ろしさ、又何と馬鹿馬鹿しい事が誠らしく人の口から耳へ伝わるのか。結局、私は一人の朝鮮人社会主義者も見なかった。唯軍人や巡査も何処にいたのか全くの無警察で大衆が不安の余りデマを信頼したのだ。

 其の頃より上空を飛行機が頻繁に飛び交うだけで交通機関は杜絶していたが、ぼつぼつ情報が流れ、焼死者が本所区被服廠跡で何万人、吉原遊廓で娼婦が他の中で死に、浅草公園内にある名物十二階の東京一の高い建物が三分の一位になった等知った。又人相の悪い奴で四辺を見渡し乍ら惨死体や黒焦げ焼死者の写真を買わないかと市民の悲しみを金儲けの種に売り歩いている不届き者もいた。

 又大森海岸へ十日頃迄、早朝に朝鮮人の惨殺死体が十数人位裸体で両手を銅線で結ばれたまま首を斬られ、その首が付いたまま波打際にふわふわ浮かんで残暑で腐敗して悪臭を放ち正視に堪えぬ日々が続いた。

 九月八日に初めて長野県警察の提灯を持った巡査や八幡の実家の長兄が東京方の親戚の震災見舞に来たし、電燈、水道も復旧した。治安も完了したので自警団も解散となった。私は月末迄、姉宅で商売を手伝い、上京後の楽しき計画も震災で吹き飛んで空しく帰郷した。家に帰って親父に逃げて来る人ばかりなのに辰野駅を通り過ぎ信越線で入京するとは何事だと目玉の飛び出る程怒られた。無理のない事で村役場の調査では私はトンネル内で死んだと噂されていたとの事だった。又京橋木挽町は至る所の橋が焼け落ちてしかたなく次兄は築地から家族一同東京湾を舟で逃げ千葉に上陸し知人の家へ疎開した事が、五日、大森今村宅へ見舞に来て始めて判明し、兄弟三人無事で安堵した。

 想えば明治年代より繁栄を誇った東京も瞬時の大震災で壊滅的大打撃を蒙ったが名市長後藤新平に依り復興し世界有数の大都会になった。東京市民を鼓舞激励する為、演歌師が巷の一隅で唄った想い出の流行歌、復興節を私が帰宅後、八幡青年会々合で披露し人気を博した。